山のねずみ The Mouse in the Mountain ノーバート・デイヴィス Norbert Davis 林清俊訳 第一章  ドウンとカーステアズが広い階段を降り、ホテル・アステカの自慢の種、ピンクのタイルを敷きつめた床を歩いてくると、ロビーの宿泊客は何をしてくつろいでいる人も、あんぐりと口を開けて目を見張った。ドウンは別にどうということはないが、カーステアズはよくこんなふうに人を驚かす。彼はささやき声と驚愕の航跡をうしろに残し、ガラスの側面ドアまでゆっくり歩いていくと、傲然と構えてドウンがドアの一つを開けるのを待った。彼がドウンの先に立って悠々とドアを抜けると、そこは信じられないほど陽光の輝くテラスだった。  ドウンは立ち止まって、すがすがしい、薄いけれども気持ちを浮き立たせる空気を深々と吸いこんだ。彼はまわりを見回し、素直な感動にひたった。彼は背が低く、やや太り気味で、ピンク色のぽっちゃりした顔に赤ん坊のように無邪気な愛らしい笑みを浮かべていた。いかにも親切そうで、付き合いやすそうな人間に見える。実際、そんな人間になることもまれにはあった。  彼は白いスーツに縁広のパナマ帽をかぶり、白いクレープゴムの靴を履いていた。  「この空気を吸ってごらん、カーステアズ。すばらしいよ。これこそ理想的なメキシコの天気だ」  カーステアズはわざと退屈そうにあくびをした。カーステアズは栗毛のグレートデーンである。四つ足で立つとドウンの胸ほどの高さがある。彼は決して芸をしなかった。芸をするなど沽券にかかわると思っているのだ。しかしかりに後ろ足で立つ芸をしていたなら、彼の頭はドウンのそれをはるかに越えていただろう。カーステアズはあまりにも大きく、犬と呼ぶのもはばかられた。新種の生物といってもいいだろう。  若い女がドウンのうしろのドアから飛び出してきて、目の前にぬっと立ちはだかるカーステアズを見ると、思わず「まあ!」と息を呑んだ。  カーステアズは道を譲らなかった。ものぐさそうに頭をめぐらし、彼女をにらむ。ドウンも同じことをした。  彼女は小柄で、やや栄養不足のように見えた。非常に大きな、非常に澄んだ青い目の持ち主だった。優しい目である。はっとさせはしないが、感じは好かった。白い帽子の下の髪の毛は茶色でなめらか、白い野外服に白いジャケット、白い透かし模様のオーバーシューズを履いていた。透明感のある、すべすべした肌をしていて、すぐ顔が赤くなった。いまも彼女は赤くなっていた。  「ごめんなさい」彼女は息もできなかった。「か――彼を見て震えあがってしまったの」  「わたしもときどき震えあがりますよ」とドウン。「お名前は?」  彼女は戸惑いながら彼を見た。「名前?ジャネット・マーチンよ」  「わたしはドウン。探偵です」  「た――探偵ですって」ジャネット・マーチンは少し口ごもるようにその言葉をくりかえした。「そんなふうには見えないけど」  「もちろんですよ。変装していますからね。旅行者のふりをしているんです」  「まあ」ジャネットはまだ戸惑っているようだった。「でも――誰にでもそのことをばらしてしまうの?」  「そうです。わたしの変装は完璧ですから、教えてあげなければ、だれもわたしが探偵だとはわかりません。当然のことです」  「まあ」とジャネット。「そうなの」彼女はカーステアズを見た。「かわいらしい犬ね。その、かわいいというんじゃなくて、その――堂々としているわ。この犬、噛みます?」  「しょっちゅうですよ」  「なでてもいいかしら?」  ドウンは尋ねるようにカーステアズを見た。「いいか?」  カーステアズはしばらくジャネットの人となりを調べていたが、つと一歩近づくと、王者のような威厳を保ったまま、頭を低くした。ジャネットはその広い額をなでてやった。  「耳をかいちゃいけませんよ」ドウンは警告した。「すごくいやがりますから」  車体の長い、茶色のバスが車回しをぐるりと回って、テラスの階段の前に停まった。こざっぱりした茶色の制服の小男がなかから飛び出し、カチリとかかとを合わせると、こういった。「雄大な景観をご覧になりたい皆様へ、学識豊かな案内つきの観光ツアーでございます」  「まあ、あなたを探していたのよ」とジャネットがいった。「ロス・アルトスに観光に行くの。これがそのバスでしょう?」  小男は一礼した。「迅速快適案内つきです」  「わたし、遅刻したのかと思っていたわ。いつ出発するの?」  「定刻通りです」と小男はいった。「いかなるときも定刻出発――記載の時間に出発です。わたくしはバルトロメ――どうぞアクセントは最後の音節に――免許取得済み運転手、有能無類のガイド、英語は上級通信教育講座で口語及び古典コースを終了した保証付き。恐縮至極ながら切符を拝見します」  ジャネットが切符を渡すと、男は疑わしそうにそれを検査し、裏返しにして細かい印刷文字まで読んだ。  「正真正銘、間違いなし」と彼は認めた。「どうぞご乗車のうえご着席願います。さっそく、もしくは、お客様を見つけしだい、出発いたします」  「もう二枚あるよ」ドウンは二枚の切符を渡した。  「ははっ」とバルトロメはいい、ジャネットの切符と同じように念入りに検査した。「結構でございます。しかしながら切符は二枚ございますのに、お一人様でいらっしゃいますね。もう一人の方はどちらに?」  「そこにいるよ」とドウンは指さした。  バルトロメはカーステアズを見て、急いで目をそらし、もう一度見た。「犬のような姿をしていらっしゃいますが」彼は慎重に、用心深くいった。  「多少ね」  「これは犬ですよ!」バルトロメは叫んだ。「信じがたき犬の化け物!まぎれもなく悪夢のごとき犬!」  「口に気をつけろ」ドウンは警告した。「すぐ跳びかかるからな」  バルトロメは切符を見てから、カーステアズを見た。「一枚は彼の分なのですか?」  「そうだよ」  「いけません」  「いけなくないさ」  「断然、いけません、お客様」  カーステアズはタイルの上に寝そべり、眠そうに目を閉じた。口論は彼の考える物事の正しいありようとは、はなはだしく異なる、というわけで彼は二人を無視した。  バルトロメは目を細めて彼を見た。「名所観光の切符は犬には売っていません」  「こいつは犬用なんだ」  「犬は豪華バスの旅に乗って、ロス・アルトスには行かないのです」  「こいつは行くんだ」  「だめっ!」バルトロメは突然どなった。「だめったら、だめったら、だめっ!傍若無人にもほどがある!待っていてください!」彼はガラスのドアからロビーのなかへ飛びこんだ。  「お気の毒だわ」ジャネットがドウンにいった。  「どうして?」彼は驚いて訊いた。  「だってロス・アルトスに犬を連れていけないんですもの」  「いけますとも」とドウン。「わたしは連れていきますよ。どこかへ行くときは、いつもこんな具合に小さな問題が生じるのです。こんなの、慣れっこですよ」  立派な仕立ての白いスーツを着、苦笑を浮かべる太った男が、バルトロメを従え、テラスに出てきた。バルトロメはカーステアズを指さし、芝居がかった声を放った。「あれです、行かせるべきでないやつは!絶対に!」  太った男はいった。「たいへん申し訳ないのですが、犬はバスに乗せられないのですよ」  ドウンは二枚の切符を示し、雄弁にまず自分自身を指さし、次にカーステアズを指さした。  太った男は頭を振った。「すみませんが、お客様、その切符は犬には適用できないんで」  「彼の名前でとったんだよ」とドウンはいった。  太った男は肩をすくめた。「しかしですな、あなたがホテルを予約し、この旅行の切符をお求めになったとき、こちらはお一人様が犬だとは知らなかったのです。犬はホテルに残していってください――ええ。でも、バスには乗せられません」  ドウンは平然とうなずいた。「分かった。じゃあ、残していこう。しかし鎖につないだほうがいいぞ。おいてきぼりにされたと知ったら、狂ったようになるからね」  「狂ったように?」太った男は疑わしげにそうくりかえし、カーステアズを見た。  カーステアズは目こそ開けなかったが、上唇を持ちあげ、大人の小指ほどもある、ぎらつく牙をむきだした。彼は低く、重々しいうなり声を発した。  太った男は一歩うしろにあとじさった。「危険なのですか?」  「もちろん」とドウン。「しかし繊細でもある。わたし以外の人間がえさをやろうとすると、襲ってくるよ。それにもしも食べなければ、彼は死ぬだろう。彼が死んだら、君を告訴して大金をふんだくってやる」  太った男は目を閉じ、ため息をついた。「バスに乗せてやれ」彼はうんざりしてバルトロメにいった。  「何ですって?」バルトロメは憤慨して叫んだ。  「乗せてやれ!」太った男は一喝した。「聞こえたか?それとも、そのツラひっぱたいて、もう一度いってやろうか?」  「聞こえましたよ」バルトロメはむっつりとしていった。彼は太った男が気取った足どりでドアを抜け、ロビーに消えるのを待って、こうつけ加えた。「信じがたい腐れ親から生まれた肥満体の子孫めが」彼はドウンのほうに向き直ると、シッシッと追い立てるような仕草をした。「どうかなかにお入りを」  一人の女がガラスのドアを開け、首を突き出すと、耳を聾する声で叫んだ。「モーティマー!」とたんに彼女は頭を引っこめ、ドアをバタンと閉めた。  彼女の叫び声はこだまとなって、静かな空気をたゆたい、カーステアズは頭をもたげて不快そうに立てた耳をゆすった。  ドアが開いて、男が首を突き出し、どなった。「モーティマー!」彼はこだまが消えるまで待ち、テラスの人々を非難するように見た。「あいつを見たか?」  「覚えがないね」とドウンはいった。  「いつかあの小悪魔を殺してやる。モーティマー!出てこい、ちくしょう!」返事はなく、彼は憂鬱そうにため息を吐いて、テラスに出てきた。ずんぐりした固太りの男で、えらの張った赤ら顔をしている。服は新調したばかりで、靴はキュッキュッと音がした。「おれはヘンショー――ウィルバー・M・ヘンショー」  「わたしはドウン。こちらはミス・ジャネット・マーチン」  「よろしく」とヘンショー。「本当にモーティマーを見なかったかい?うちのガキなんだ。腹話術人形のチャーリー・マッカーシーにちょいと似ているんだけどね」  「あれはどうだろう?」ドウンはバルコニーの柵の上にひょっこり突き出た羽ばたきを指さした。  「モーティマー、この悪ガキめ!」ヘンショーはどなった。「そのにわとりのうしろから出てこい!」  羽ばたきは不承不承ゆれ動き、しなびた、そばかすだらけの、はなはだ邪悪な顔があらわれ、ぼさぼさの真っ赤な髪のあいだから、鋭い視線を彼らのほうに放った。  「なんだってんだよ、デブ」モーティマーは父親にいった。  「いいか、この野郎、そばを離れたら、首根っこをへし折るからな」ヘンショーはすごんだ。「本気だぞ。これからロス・アルトスに観光旅行だ。一日おまえのケツを追いかけるような真似はさせるなよ」  「てめえのケツでも追いかけな、にかわ頭」モーティマーが忠告した。「そして二度と帰ってくるな」彼は小型の海賊が船に乗り込むように柵をよじ登った。羽ばたきを帽子の代わりにかぶり、ボーイスカウトのカーキ色のズボンに、カーキ色のブラウスを着ていた。「犬だ!」彼は有頂天になって叫んだ。「ほら、見て、足をあぶってやる」  彼はポケットから台所用マッチを取り出し、猛獣狩りのハンターよろしく、寝ているカーステアズに忍び寄りはじめた。ジャネットが抗議しようとすると、ドウンは彼女にウインクして、頭を振って見せた。  モーティマーがまだ一メートルほど離れているとき、カーステアズは膝をついたまま上体を持ち上げ、彼をにらんだ。坐ったままだと、カーステアズの顔はモーティマーの顔と同じ高さになった。ゆっくりとカーステアズは口を開き、モーティマーの頭がすっぽり入って、まだ余裕がある広さまで広がった。モーティマーはショックに身体が麻痺し、ぽっかり開いた深紅の洞窟をのぞきこんだ。  カーステアズが身を乗り出し、顎を閉ざすと、モーティマーの鼻先三センチのところで残忍な、耳ざわりなガシッという音がした。  「うげっ!」モーティマーは悲鳴をあげた。「うげっ!かあちゃん!かあちゃんてば!」彼はテラスを突っ走り、おぼろな、さび色がかった稲妻となって、ドアからロビーに逃げこんだ。  「あんた」ヘンショーが熱心に話しかけてきた。「その犬、買うよ。いくらだい?」  「売りたくても売れないんですよ。彼が許さないだろうから。それに商売あがったりのときは、わたしを養ってくれるしね」  「そうなの?」ジャネットが訊いた。「どうやって?仕事するの?」  「ええとですね」とドウン。「そうともいえるし、そうでないともいえます。ちょっといいにくい話しなんだけどね。つまり、彼の注意を引きたがるグレートデーンのご婦人がたがいらっしゃるのですよ…」  ジャネットは赤くなった。「まあ!」  「そいじゃ、一日貸してもらえないかね?」ヘンショーが頼んだ。「うんと大切に扱うよ」  ドウンは首を振った。「残念ですけど。でも近くにいたときは、いつでもモーティマーをおどしてさしあげますよ」  「友よ」とヘンショーがいった。「そうしてくれりゃ、おれは一生涯、あんたの友達になるぜ。嘘じゃない。おれは給排水設備を売っているんだ――『より良きアメリカのために、より良きバスルームを』ってやつさ。あんたは何をしてるんだい?」  「犯罪」とドウンはいった。  「あんた、凶悪犯人かい?」ヘンショーは興味をひかれて訊いた。  「そういう噂もありますね。でも、わたしは私立探偵だといっています」  「なある」ヘンショーは関心をなくしたようにいった。「あいつらの一人かい、ええ?まあ、おれはいつもいってるんだが、人間、なんかかんか生計を立てなきゃならねえからな」  先ほどモーティマーを探して叫んだ女があらわれた。モーティマーはそのすぐうしろにくっついていた。前進する彼女のうしろを右に左に移動しながら様子をうかがっていた。  「さっ、モーティマー」彼女は決然といった。「あなたを襲った犬を教えなさい。わたしが――あら!あら!ウィルバー、助けて!」  「何から?」ヘンショーが不機嫌そうに訊いた。  女はまるまるとした、震える指でカーステアズをさした。「あれ――あの怪物から!」彼女は農民の仕事着に、まだらのスカートをはいていて、金縁の鼻眼鏡をかけていることをのぞけば、農民そっくりだった。「獰猛なけだものよ!」  「まったくさ」とヘンショーは同意した。「獰猛でお利口だ。あいつにモーティマーを夕飯がわりにくれてやるって約束したんだ」  「うげっ!」とモーティマー。「かあちゃん!」  女はきびしい口調でいった。「ウィルバー、そんなことをいうのは止めなさい。モーティマーが悪い夢を見るじゃない」  「なんでえ。おれだってたっぷり見させられてるんだ。みんな、こいつは女房だよ。こっちはミス・ジャネット・マーチンにミスタ・ドウン。ところでロス・アルトスにはいつ出発するんだ?」  「予定通りでございます」とバルトロメがいった。「印刷に書かれてある通り。どうか、なかに入って、足もとゆったり、デラックス席におつきください」  ドウンは人差し指でカーステアズの耳を軽くはじき、「そら、立っちしな」といった。  カーステアズは立ちあがって、ぶらぶらとバスのほうに向かった。  「彼を行かせちゃだめ!」ミセス・ヘンショーが金切り声を上げた。「あんな危険なけだもの!」  「はばかりながら、断然、その通りです」とバルトロメがいった。「この下劣なホテルを経営し、名所観光を主催している傲慢な泥棒野郎に文句をいってやってください」  「わたしは行きませんからね!」とミセス・ヘンショーがいった。「モーティマーもですよ!」  「そりゃよかった」とヘンショー。「じゃ、あとでな」  ミセス・ヘンショーはゆっくりと険悪な様子で頭をめぐらし、鼻眼鏡の奥からジャネット・マーチンを見つめた。彼女はジャネットをつぶさに品定めし、それからもう一度、検分をくりかえして、心得顔にうなずいた。  「それじゃ、行くわよ」  「かあちゃん!あの犬が――」  「黙りなさい。わたしはね、お父さんのことも、お父さんのすけべな本能のことも知っているのよ――悲しいことにね!」  ドウンはバスのドアを開け、尻を後押ししてカーステアズをなかに入れた。カーステアズは立ち止まって、じっくり内部を見回し、うしろに向かって通路を進んだ。床に坐ると、ため息をつき、陰鬱そうに窓の外を見た。ドウンは肘でつついて道をあけさせ、彼のとなりに坐った。  ジャネットがおどおどといった。「一緒に坐ってもいいかしら?」  「もちろんですよ」とドウン。彼はカーステアズの頭を横から手で押した。「場所をあけろ、このでくのぼう」  カーステアズはうなり声をあげて移動した。ジャネットが席に着くと、彼は用心深そうな目で彼女をながめ、まず頭を一方にかたむけ、それから反対側にかたむけた。最後に前足を前方に少しずらすと、身体を低くし、頭を彼女の膝にのせた。  ドウンはあっけにとられて目を見張った。「おや、なついてしまいましたね!」  ジャネットはカーステアズの頭をなでた。「いつもは人になつかないの?」  「そうですよ。人嫌いなんです。わたしのことは軽蔑しているんです」  「軽蔑ですって!」ジャネットは叫んだ。「でも、どうして?」  「実は、わたしはサイコロ賭博で彼を手に入れたんですよ。そのことを恨んでいるんです。それにわたしの名前は名士録にのっていませんけど、彼のはのっていますから」  「何ていうの?彼の名前って」  「カーステアズ。正確にいうと『ドゥーガルさんちのレアード・カーステアズ』」  「血統書つきなの?」  ドウンはうなずいた。「十キロくらい長いやつが」  「出場したことはあります?その、犬の品評会に」  「もちろん。でも退屈なだけですよ。いつも優勝ですから」  「きっとすごい値打ちがあるんでしょうね」  「一度、七千ドルで売ってくれといわれたんですがね」ドウンはため息をつきながらいった。「それも現金で。断ったんですよ。なんで、あんなことをしたのかなあ」  「それって、すばらしいと思うわ。つまり、その、彼を売らなかったこと」  「彼がそう考えてくれたらいいんですけどね。感謝してくれると思っていたんですが、彼はただあざ笑うばかりです。彼のあざ笑うところを見てみます?見事なものですよ。ほら!」ドウンはカーステアズのほうに身体をかがめ、甘ったるい、はにかむような声を出した。「ドウンちゃんのちっちゃくってカワユーイ子犬ちゃんは、なんてお名前でちゅか?」  カーステアズはゆっくりと険悪な目をあげた。上唇の片側が持ちあがり、目が山吹色に、凶暴に光った。  「冗談だよ」ドウンは急いでいった。  カーステアズはしばらく警告するように彼を見ていたが、ゆっくり頭をジャネットの膝上に戻した。  「本当にあざ笑うことができるのね!すごい顔!」  「今のは、まだおだやかなほうですよ」  「罰を与えたことはある?」  「一度、やろうとしたんですけど」  「どうなったの?」  「彼に押し倒されて、三時間、上にのっかられました。体重が一トンくらいあるんです。まったく面白い経験じゃありませんでした。二度としようとは思いません。いずれにしろ、わたしよりお行儀がいいんですけどね」  ヘンショー一家が、先頭の席に着き、ヘンショーはいらいらとうしろを振りかえって話しかけてきた。  「なあ、あのちんぷんかんぷんのおしゃべり野郎、いつ出発だといっていた?それともこの旅行はただの噂だったのか?」  「来たわよ」とジャネットがいった。  バルトロメはテラスの階段を降り、バスのドアから身をのりだした。「さっそく、すぐあとに出発します。どうぞ賓客がご到来になるまでご辛抱を」  「そりゃ誰だい?」ヘンショーは興味をそそられた。  「とてつもない金満家パトリシア・ヴァン・オスデル様とその寄生虫どもです」  「たまげたな!」ヘンショーは嘆声を発した。「聞いたか、ドウン?パトリシア・ヴァン・オスデルだとよ。ハエ取り紙業界の女王様だぜ。彼女のおやじが、ハエの好きな味のする接着剤を発明して、それで五百億もうけたんだ」  「結婚しているの?」ミセス・ヘンショーが疑るように訊いた。  「あの方がそのような下品な真似をなさるはずがありません」とバルトロメ。「若いツバメを飼っているのです。おいでになりましたよ。皆様、ご準備を!」  鉛筆のようにやせた、背の低い、年配の女性が、日の光のなかで黒ずくめの衣装にしわを寄せ、衣擦れの音をさせながらテラスに出てきて、階段を降りた。青白い馬ヅラで、一方の頬に黒いイボがあり、口を開くと待ち伏せしていた歯が飛び出した。  ヘンショーは目の上にかざした手を窓に押しつけて熱心にのぞいていた。「えらく年をくったもんだ。さもなきゃ、写真うつりがよすぎるんだな」  年配の女性は堅い、骨ばった人差し指でバルトロメの胸をつついた。「おどき!」彼女はシュッシュッとドレスの音をたててバスのドアをくぐり、二度ほど確かめるように鼻をならして匂いをかぐと、大きなスカートのどこかから香水スプレーを取り出し、あらゆる方向に勢いよく吹きかけた。席を選ぶと、手早く、いらいらと絹のちりふき布でほこりを払った。  「やあ」とヘンショーがいった。「あんたがパトリシア・ヴァン・オスデルかい?」  「ちがいます」と年配の女性はいった。「わたしはマリア。身の回りのお世話をする女中です。どうぞむこうを向いて余計なことに首を突っこまないでちょうだい」  「わかったよ」ヘンショーは愛想よくいった。彼は手をかざして窓の外をながめた。「おい!来たぜ!見ろよ、ドウン。うひょー!」  支配人があらわれ、マイセン磁器の人形のように美しい、はかなげな女性の前で、優雅に腰を折り、うなずき、手を動かした。彼女は長い、白いケープをはおり、その上には金を紡いだような髪の毛が浮かんでいた。唇はピンクに色づき、生意気そうだった。目の色は青ではなくて、深い、抜け目のない緑だった。その態度、物腰、顔つきは、どれをとっても貴族的以外のなにものでもない。  若い男がむっつりと一歩後れて彼女のあとからついてきた。彼女の色の白さに負けないくらい、見事な色黒だった。髪は黒い巻き毛、横顔は信じられないくらい整っていた。白いスラックスに、白いセーター、首には青い絹のスカーフを巻いていた。細い口髭をたくわえ、もみあげを長く斜めに伸ばしていた。  彼は階段の上で立ち止まり、人差し指をバスに向けた。「こいつに乗るのか?」  「そうよ、グレッグ」とパトリシア・ヴァン・オスデルはおだやかにいった。  「気にいらんぜ。おれが気にいらんことくらい、わかりそうなものじゃないか?」  「いいこと、グレッグ」パトリシア・ヴァン・オスデルはたしなめた。「これが民主的なやり方なのよ。これがアメリカ流なの。堅苦しい階級の区別なんてないのよ」  「ヘドが出る」とグレッグ。「このバスも、メキシコも、合衆国も、あんたの民主主義にもよ。はっきりいっておくぜ、本当のことだからな」  「バスにお乗りなさい、グレッグ。面倒なことはいわないで」  「おれはこんなもの認めねえ」グレッグはバスに乗りこみながらいった。「警告しておくぜ」  支配人とバルトロメはパトリシア・ヴァン・オスデルの手を取り、やさしくドアからなかへ導いた。  「きっとご堪能なさいますよ」と支配人は約束した。「バルトロメ、この脳たりん、景色のいいところは残らずご説明申し上げろ。でこぼこは全部、避けて通れよ。一度だってバスを揺らすな。わかったか?」  グレッグは席に着くと、不機嫌そうに窓の外をながめていた。マリアは自分で選び、ほこりを払った席へ、パトリシア・ヴァン・オスデルを大切に案内した。  その動きがバスの後部へ香水の匂いを運んだ。カーステアズはくさめをし、さらにもう一度、もっと大きなくさめをした。  マリアが飛びあがって、目をむいた。「そいつ!」彼女は断固としていった。「出なさい!」  「ただの犬でございますよ」と支配人は急いでいった。  「極めて知性的、驚嘆すべき犬です」とバルトロメがつけ加えた。  「追い出して!」  「いいえ、できません」支配人は恐怖しながら反対した。  「断然、できません!」バルトロメが口添えした。「極めて繊細、洗練された犬なのです」  「全然かまわなくってよ」とパトリシア・ヴァン・オスデルが彼女にいった。彼女はドウンとジャネットに笑顔を向けた。「わたし、犬が好きなの。犬って、とっても個性があるわ。そう思わない、グレッグ?」  「いいや」とグレッグ。  ヘンショーが咳払いした。「おれはヘンショー――」  「誰がそんなこと訊いた?」グレッグは冷たく問うた。  「グレッグ、愛想よくしてちょうだい。ミスタ・ヘンショー、お会いできてとてもうれしいわ。こちらは奥様とお坊ちゃん?すてきな家族だわ!皆さん、わたしのことはご存じですわね。こちらは女中のマリア。こちらは避難民のお友達、グレゴール・ドゥバニスノス」彼女は上品にうしろを向いた。「あなたたちのお名前は?」  「ドウン」とドウンがいった。「こちらはミス・ジャネット・マーチン。この床に坐っているのはカーステアズ」  「カーステアズ!」パトリシア・ヴァン・オスデルはほほえみながらくりかえした。「犬にしては愉快な名前ね!」  カーステアズは片目を開け、彼女を見ると、低く悪意に満ちたうなり声をあげた。  「さあ、これでみんなお知り合いになれたわ」パトリシア・ヴァン・オスデルが明るくいった。「和気藹々と、一緒に一日楽しく旅ができるわ。こうでなくっちゃ。これがアメリカの平等の伝統ですもの。もっとも、本当は、皆さん、ある意味でわたしのお客様なんだけど」  「どういう意味で?」ドウンが訊いた。  パトリシア・ヴァン・オスデルは優雅に肩をすくめた。「たいしたことじゃないの。くだらない差し障りというか、つまらない規制があって――ホテルがロス・アルトス行きの旅行をキャンセルしようとしたんだけど、わたしが説得したのよ」  「どう説得したんです?」とドウンが訊いた。  「正直にいうわ、ミスタ・ドウン、袖の下を使いました。お金って、つまらないものだけど、ときどき役に立つわね」  「そうらしいですね」とドウン。「どうして買収なんかしたんです?」  「もちろん、ロス・アルトスに行こうと決めていたからよ。あなたも何かでお読みになったんじゃないかしら。さもなきゃ、あそこに行こうなんて思わないでしょうから。がっしりした体格の農夫たちが住む、人里離れた山奥の、平和な、絵のような村。昔ながらの平和な生活に満足し、文明なんて非人間的な力に汚されていない人々。ごく最近、新しい軍用道路ができるまで、ラバに乗って旅するしか、あそこに行く手だてはなかったのよ。この村は平和な、昔ふうの雰囲気をたたえていることで有名なの」  「それだけの理由のために買収までしてこの旅行をやらせたのですか?」とドウンは訊いた。「平和な、平和な農夫たちが動き回っているのを見たいというだけで?」  「ずいぶん穿鑿なさるのね、ミスタ・ドウン」  「やつは探偵なんだ」ヘンショーがいった。「あの連中がすることは、面倒を起こすことと、質問することだけさ」  パトリシア・ヴァン・オスデルの声が急に鋭くなった。「探偵?あなた、税関のスパイ?」  「いいえ」とドウン。「どうしてです?何か宝石でも合衆国に持ちこもうとしているんですか?」  パトリシア・ヴァン・オスデルは微笑みを絶やさなかったが、目が少しだけ細くなった。「ミスタ・ドウン、冗談なのはわかりますが、そういうことはたわむれにもおっしゃってはいけません。ご存じのように、わたしたちの偉大な国家は、富める者も貧しい者も、立派な生まれの者も賤しい生まれの者も、法律を忠実に守ることで成り立っているんです。ちゃちな宝石の申告をごまかして政府をだまそうなんて、夢にも思っていません」  「おや。ただ訊いてみただけですよ」とドウン。  「おれもちょいと訊きてえな」とヘンショー。「この大巡遊の旅はいつ出発するんだい?出発するとしたならよ」  「正確に定時出発です」とバルトロメがいった。「印刷にある通り、即刻。タイヤ、オイル、ガソリンの点検終了後ただちに」  「何をぶつぶついってるんだ、このすっとこどっこい」支配人が一喝した。「乗れ!出発しろ!今すぐ!」 第二章  ロス・アルトスでは、マサラ郊外のホテル・アステカに投宿する金持ちアメリカ人観光客が、ロス・アルトスまでバス旅行をするらしいという噂がたっていた。もちろんこの噂が額面通り信用できないことは明らかだった。少しでも知性のある人間、あるいはラジオを所有している人間は、アメリカ人が世界中で騒動を起こすことに忙しく、風景など、爆撃照準器を通して以外、見ているひまがないことを知っていたのだ。  しかし昨今、観光客と名のつくものが極端に減少したため、もうすぐ彼らがやってくるという暗示は、それだけで一種、即席のお祭り状態を現出させた。ロス・アルトスの住人たちはセラーペ、マンティーラ、レボゾ、それに類した古着から虫よけ玉を振りはらい、何かあればすぐ色鮮やかな姿になれるよう支度をととのえた。彼らは市場に豚やにわとりやロバや犬や子供を連れて集まり、古びた舗道の上で、各人その生理的欲求にしたがって、寝たり、口論したり、モーとかキーとかコッコッと鳴いたり、小便をたれた。  こうしたことすべては、とりあえずここにガルシアと名づける男には退屈でしかなかった。彼は椅子に坐って、なにやらぬるい酢のような色と飲み心地のビールを飲み、苦い顔をした。細い黄ばんだ顔に、黒い口ひげがだらしなく広がり、目は寄り目だった。本当は彼はホテル・アステカの観光客にもっと関心を抱くべきだった。というのも、そのうちの一人がこれから彼を射殺することになるからである。しかし彼はそんなこととはつゆ知らず、かりに教えてやったとしても、笑いとばすか、目につばを吐きかけるか、たぶんその両方をやらかしただろう。彼は悪党だった。  彼は今、ドス・エルマーノスに坐っていた。そこは経営者の兄弟によると、高級喫茶室とのことだった。北に走る道路に面していて、となりに一軒おいて、そのむこうは市場だった。時間が早いのと、まだ誰も酔っぱらう金を手にしていなかったのと、ガルシアの面相が兇悪だったせいで、彼以外に客は一人もなかった。経営者の一人はカウンターに頭をのせて眠りこけ、ハエがおそるおそる、暗くて突発的に風の吹きだす、洞穴のような彼の口を探検していた。ガルシアは開けはなった喫茶室の正面入り口から、はすむかいに市場を見渡すことができたが、外からは誰も彼を見ることができなかった。  メキシコ陸軍セレス二等兵は、しばらく前から、そのことに気づいていた。彼は通りをへだてて喫茶室のまむかいに建つ空き家のなかにいた。おそろしくざらざらした床板の上に腹ばいになり、大きな、ガラスのない窓から下をのぞいていた。疲労困憊し、目は痛く、両肘がひりひりした。タバコとビールと昼寝が、その順番で欲しいと思ったが、これから当分のあいだ、そのどれにもありつけないことはわかっていた。  その悲観の理由は、同じくメキシコ陸軍所属のオブリアンという軍曹だった。オブリアンはアイルランド人の祖父から赤い口ひげと猛烈な癇癪を受けつぎ、部下が命令を文字通り遂行することに非常なこだわりをもっていた。彼はセレス二等兵に、彼が今いる、まさにその場所に横たわり、見つからないよう、しっかりガルシアを監視しろと命令したのだった。ペレス二等兵は、さらなる命令があるまで、ひたすら任務に集中するほうが賢明であることを知っていた。  先のことを憂鬱に考えていると、監視部屋の閉じたドアの外から、通路の床板がきしむ音が聞こえてきた。ひどいかんしゃく持ちで、それよりひどい言葉づかいのオブリアン軍曹が見回りにやってきたのだろう。ペレス二等兵はひりひりする肘をついて上体をもたげ、できるだけ兵士らしい、油断のない姿勢をとって窓の外を見た。  重い錬鉄製のドアのちょうつがいが、かすかにきしみ、何かがドサリと床を打った。ペレス二等兵のすぐ脇だった。彼は肩越しに振りかえった。ドアは再びゆっくり閉められようとしていたが、ペレス二等兵はそれには気づきもしなかった。  彼は恐怖に麻痺したように、ドサリと音をたてたものを見た。長さ五フィート、胴体は大人の力こぶより太い菱紋ガラガラヘビだった。  ヘビはしっぽの角質発声部を切りとられ、ほかにも不名誉なしうちを受けていたが、だからといって気性は改善されていなかった。すっとうしろに身を引くと、くるりととぐろを巻き――しなやかな、不気味な筋肉のかたまりだ――そして襲いかかった。攻撃は半インチ、セレス二等兵の足からそれた。  彼は悲鳴をあげた――恥も外聞もなく大声で。呼吸せずにはいられないように、悲鳴をあげずにはいられなかった。気も狂わんばかりに床を這い、ライフルをつかむと、次の攻撃範囲をのがれるようにあとじさった。部屋のなかに家具はない。ヘビはペレス二等兵とドアのあいだだ。彼は唯一、一時的な避難場所となりそうなところへ飛びあがった。窓枠の上によじ登ったのである。  ガルシアは悲鳴を聞いた。上を見ると、ペレス二等兵が窓枠に立っている。黄ばんだ顔はショックも恐れも示さなかったが、唇がうすくめくれて歯がのぞき、彼は上着のポケットからニッケルメッキのごついピストルを取りだした。テーブルから立ちあがって、経営者を見た。経営者は寝言をいって、カウンターの上で頭をごろりところがした。悲鳴にやや眠りをじゃまされたようだったが、彼にとって幸いなことに、目はさまさなかった。ガルシアは忍び足で部屋の奥にむかい、そこのドアを開けると、短い通路を通って、ひどい臭いの台所を過ぎた。その通路の端までくると、彼はもう一つのドアを開けて、ごみやら、それ以下の廃棄物で舗装された、小さな、壁の高いパティオに出た。  横の出入り口にむかってパティオをなかほどまで進んだとき、一人の兵士が壁の背後から顔をのぞかせた。ガルシアと兵士は顔を見合わせ、心臓が鼓動を二つ打つあいだ、驚きに身体をこわばらせていた。しかし次の瞬間、ガルシアはすばやくピストルをあげて発射した。  鈍い、いやな音がした。弾丸は兵士のちょうど顎の下に当たった。彼は両手を喉にあてがい、どさりとのけぞるように姿を消した。ガルシアは横の出入り口を開け、喫茶室のとなりの店を所有している肉屋を見た。  三匹の猫と百万匹のハエの助けを借りながら、骨と皮しかない雌牛を解体していた肉屋は、その作業を中断させられた。口を開けて叫ぼうとしたが、できなかった。ガルシアにピストルで脳天をなぐられ、のびてしまったからである。猫は三方に逃げ去り、ハエは怒り狂う大群となって飛びあがったが、すぐまた牛肉の上にも、肉屋の上にも、見境いなく舞いおりた。  ガルシアは急がなかった。注意深く路地を市場にむかって進んだ。一方の壁に背中をすりつけ、ピストルを前に構えていた。路地の入り口に達すると、外をのぞいた。市場の人々は不安そうにざわめき、いぶかしく思いはじめていた。  オブリアン軍曹は二件離れた建物の屋根の上に立ち、手すりから身をのりだして、何事が起きたのかと下を見た。ガルシアはピストルを持ち上げ、慎重に狙いをつけた。彼は斜めに、太陽にむかって撃った。狙いは六インチそれた。弾は銀色に光る銅のかたまりとなって、れんがにピシリと当たった。とたんにオブリアン軍曹は視界から消え、手すりのうしろに隠れた。  ちょうどそのとき、ペレス二等兵は刀剣でガラガラヘビを突き刺すことができた。しとめてみると、始末に困り、彼は窓から市場へそれを放り投げた。ヘビはまだ身をくねらせながら、下のロバの鼻先に落下した。ロバは両方の後ろ足をけりあげ、主人の腹をまともに打った。彼はひっくり返って悲鳴をあげ、殻ざおのように両手で地面をたたいた。  ロバはヘビを踏みつけて走り去り、肉屋は起きあがって大声を出し、市場全体が時限爆弾のように暴発した。誰もが急いでその場を離れようとした。人間と動物を問わず、さまざまな扶養家族を可能な限り引きつれて。混乱はただならず、ガルシアはその渦中に足を踏みいれ、姿を消した。 第三章  砂利道は優雅な輪をいくつも描く、まっ白いリボンのように山腹をとりまき、山は透きとおった水色の空にむかって、赤茶けた巨体をそびやかしていた。陽炎がむきだしの岩の上にゆらゆらと揺れ、バスにまきあげられた土ぼこりは、のんびり宙を漂いながら、地面に舞いおりた。エンジンはブルブル、ボソボソ、独り言をいって、勾配のきつさに静かな抗議をとなえた。  「こいつはかなりの岩山だぜ」ヘンショーが窓から山頂を見あげようとしながらいった。  「どうぞ驚嘆を無駄になさらないように」バルトロメがいった。「雄大な光景はこの先です。ここはラ・カベサ、頭、と呼ばれてます。なぜならそういう名前だからです。ここの景色は普通に素晴らしい程度です」ジャネット・マーチンの目は輝いていた。「山並みの中間部分が始まるところよ」彼女は低い声でドウンにいった。「コルテスの中尉の一人が発見したの。彼は山並み全体が寝ている女の形に似ていると思ったのよ。最初はアセラ峡谷の反対側――ここから百十マイル離れたところから見たの」  「その人の名前は?」とドウンは訊いた。  「エミール・ペロナ中尉。彼は冒険軍人――探検家だったの。スペインのとても由緒ある家柄の御曹司で、最初にアメリカに来た人の一人よ。彼はこの国にほれこんだの――美しさと険しさに。彼の気性にぴったり合ったのね」  「ハンサムでしたか?」ドウンは彼女を見つめながら訊いた。  「ええ」とジャネットは静かにいった。「とっても。背が高くて、タカのような顔をして、日焼けしているの。突き刺すような目と、暗い部屋にともる明かりのようなほほえみの持ち主。あの当時の勇敢な男がみんな残酷だったように、彼も無慈悲で残酷だったわ。でも誠実で、正直で――」彼女は夢を見るように声がだんだん小さくなった。  「ずいぶん詳しく知っているようですね。四百年前に死んだにしては」  「本で知ったのよ」  「わたしも字は読めます」とドウン。「しかも、よく読むほうなんです。でもペロナ中尉にはお会いしたことがありませんね。どこで見つけたんです?」  「コルテスの報告書に出てくるわ」  「コルテスは彼がハンサムだといっているのですか?」  「いいえ」ジャネットはぎこちなくいった。  「もっと聞かせてください」とドウンは頼んだ。  ジャネットは頭を振った。「いやよ。あなたはわたしのことを笑っているわ」  「そんなことありませんよ。カーステアズだって。二人ともあなたが好きなんです」  「あなたは――わたしがセクシーだと思う?」  「何ですって?」ドウンはびっくりした。  ジャネットは燃えるように赤くなった。「思ってないのね!そんなこと、ちっとも思ってないんだわ!」  「実は思っていたんですよ」ドウンは反論した。「遠回しに、だんだんと、そこにむかうところだったんです」  「わたしのこと、笑っているくせに!」ジャネットは強く下唇をかんだ。「知らない!あんなの本当じゃないんだわ。なのに、女の子をその気にさせるなんて、ひどい!」  「何が本当じゃないんです?」  「小説や映画のなかでいわれていること、美容院に行って身なりをととのえたら、男が――男がいい寄ってくるってこと」  「紳士的にね、もちろん」  「いやよ!」ジャネットは怒ったようにいった。「紳士的になんか言い寄られたくないわ!」  「時間さえくれれば、わたしもかなり下品な流し目を使うことができますよ。それでお役に立てるかな?」  「からかうのはよしてちょうだい!」  グレッグが座席から振りむいて彼らを見た。「ミス・マーチン、その探偵がちょっかいを掛けてくるのかい?」  「えっ?」ジャネットはぽかんとした。  「やつはその手の男みたいだな」とグレッグ。「よかったら、おれとここに坐らないか?」  「グレッグ」パトリシア・ヴァン・オスデルがいった。「誰かと一緒に坐りたいなら、マリアがいるわよ」  グレッグは彼女を無視した。彼は微笑みを浮かべていた。歯は白く、細い口ひげの下で光っていた。彼はその気になれば大変な魅力を発揮するのだった。魅力がオーラのようにまわりに漂っていた。  マリアが立ちあがると、グレッグはゆっくりと彼女のほうを振りむいた。かみつく場所を見定めるヘビのような、危険な動きだった。  「そこにじっとしていろ、ババア」グレッグは抑揚のない声でいった。マリアはすばやく席に着いた。  「じゃ、わたしがとなりに坐ってあげるわ、グレッグ」パトリシア・ヴァン・オスデルがさわやかにいった。  「おれが坐れといったときにな――それまではだめだ」グレッグがいった。「ここに来ないか、ミス・マーチン?」  「ありがとう」ジャネットは戸惑いながらいった。「でも――わたしはここで結構よ」  「じゃ、あとでな」その台詞には約束とほのめかしがこめられていた。  ジャネットは顔をこわばらせ、驚いたように、じっと坐っていた。パトリシア・ヴァン・オスデルは嫉妬深い、抜け目のない目で彼女を見つめた。  ヘンショーが咳払いした。  「お目当ての景色はバスの外よ」とミセス・ヘンショーがいった。  「ああ」ヘンショーはうわの空でいった。「きれいだな」  「どうしてわかるのよ?」ミセス・ヘンショーは訊いた。  「なんだ?」とヘンショー。「おお、そうだった」彼は熱心に窓の外を見た。  「機嫌が直りましたか?」ドウンはジャネットにささやいた。「まあ!」とジャネット。「美容院のことは本当だったのね!」  「そのようですね」とドウンは同意した。  「自分がばかみたいだってことは、わかっているけど、でも、出発前に美容院で七十五ドルも使ったのに、その甲斐がなくて、がっかりしはじめていたの。男の人は誰も――わたしを見ようとしないみたいだし。つまり、その――」  「わかりますよ」  ジャネットは足を伸ばした。カーステアズは頭の支えが動いたので、眠そうに抗議のうなりをあげたが、目は開けなかった。ジャネットは自分の足をとっくりとながめた。  「わたしの足は男の人好みかしら?」  ドウンは公平な目で観察した。「ええ」  「ストッキングをはいてないのよ」  「気がついてましたよ」  「薄くペディキュアを塗ったの」  「しかも、とても可愛らしくね」とドウンは批評した。  ジャネットは再び緊張を解いて、満ち足りた思いでため息をついた。「自分がここにいることも、これが現実だっていうことも、信じられない。夢に思い描いていたより、ずっと、ずっと、すてき。わたし、打ち明けたくてたまらないことがあるの。聞いてくれる?」  「一つだけ条件があります」とドウン。「それはね、犯罪の告白をしないこと。わたしが探偵というだけで、いつも、みんな、これを好機と、告白するんですからね。それがどんなにわたしをうんざりさせるか、想像もつかないでしょう」  ジャネットは彼を見た。「あら、告白してもらいたがっているのだと思っていたわ。そのほうが手間がかからないじゃない」  「そこなんですよ。わたしは手間を省きたくないんです。料金は一週間単位で払われますからね、仕事が長引けば、長引くほど、もうかるんです。いつも長引かせようとするんですが、それがえらく大変なんです。たとえば、いちばん最近の事件なんですけど、ある事務員が金融会社の金を五万ドル横領したんです。彼はわたしが事務室に入って名前を聞いたとたんに告白しはじめたんです」  「で、どうしたの?」ジャネットは興味をそそられて訊いた。  「黙らせましたよ、もちろん。それから手がかりを探すふりをして、あたりを見たんです。でもそいつがあきらめないんですよ。わたしにつきまとい、足を休めようと坐るたびに、また最初から告白をくり返すんです。隠しようがなくなって、逮捕しましたけどね」  「でも、それって――倫理的なのかしら?つまり、その――あなたみたいに時間かせぎすることって?」  「それって、のあと、何ていいました?」  「倫理的なのかしら」  「わたしは探偵ですよ。私立探偵なんですよ」  「私立探偵に倫理はないの?」  「さあ、どうでしょう」ドウンは顔をしかめた。「考えたことがないなあ。いつか調べなければなりませんね。でも、打ち明けたいことって、何です?」  「笑ったり、からかったりしない?」  「約束します」  「わたし、先生なの」ジャネットはささやいた。  ドウンはショックを受けた顔をした。「まさか!」  「約束したじゃない」  「わたしは真面目ですよ」  ジャネットはいった。「ウィステリア・ヤング・レディース・セミナリーっていう女学校の先生なんだから」  「なあんだ、やっぱり嘘だったんですね」  「違うったら。本当にそういう学校があって、わたしはそこで教えているの。病気のおばを訪ねるため、休暇中なのよ。もちろん、おばなんていないけど。わたしは身寄りが一人もないの。孤児院で育ったから――十八になるまでね。ひどいところだったわ。制服を着せられるのよ!木綿の靴下は、ちくちく、ごわごわだし」  「そりゃ大変だ」ドウンは同意した。  「孤児院がわたしに女学校の仕事を世話してくれたの。わたしは、こう見えても、勉学優秀で、本もよく読んでいるのよ。でも子供たちは手に負えない。特に金持ちの子は――わたしはただのやぼったい女――さえない女だったわ。男の人と会う機会はなかったし、会ったとしても、わたしは見むきもされなかった。それに女学校は小さい町にあって、やたら規律がきびしくて、保守的で、わたし、そのままオールドミスになるところだった!」  「そんなときにメキシコとコルテスと――ペロナ中尉を発見したんですね」  「そうよ。わたしはスペイン語を勉強していたの。女学校にスペイン語のコースが出来ることになっているから。前はなかったのよ。洗練された言葉じゃないからって。でも今は、ヨーロッパで恐ろしいことが起きているせいで――」  「大勢の人がアメリカを再発見していますね。前に坐っているハエ取り紙の女王様も含めて。ヒトラーとヒロヒトがうろつきはじめるまでは、合衆国のほうに来るといっても、フランス南部かバリ島どまりだったのに。今では急に民主主義に目覚めて熱狂してますよ。でも、話を続けてください――スペイン語を習っていたそうですね」  「スペイン語はとても美しい言葉よ!それからスペイン語圏の国々と、その歴史に興味を持ったの。ひたすら何千冊も本を読んだわ。本になっていない、ほこりだらけの古い手書き原稿も。女学校には誰も利用しない立派な歴史資料館があるの。コルテスと部下に関する資料は、みんな読んだわ。そしてジル・デ・リコっていう人の日記を見つけたの。彼は書記――いわば、コルテスの秘書であり、歴史的な足跡を記録した人ね。公式文書をことごとく保存し、スペインの家族にだけ見せるつもりで日記を書いていたの。ペロナ中尉と旅をして回ったから、彼のこともたくさん書いているわ。二人は親友だったの。わたし――二人と知り合いのような気がする――その、直接会ったことがあるみたいな」  「わかりますよ」  「そのあと、現代のメキシコについても読みはじめたわ――彼らの旅した国が、今、どんな様子なのかについて。メキシコって――なにからなにまで魅力的!」  「そう思いますよ」  ジャネットの目は輝いていた。「わたし、見に来たくてたまらなかった!いてもたってもいられなかった!わたしは生まれてから一度も本物の休暇を取ったことがないの。お金を貯めに貯めて来たのよ。ついに来たんだわ!夢でもまぼろしでもない、わたしは今、メキシコにいるのよ!」  「その通りです」  「ああ、どんなにこれを夢見たか、わからないでしょうね。魅惑と、活気と――ロマンスの数々!あこがれはつのる一方で、わたしはとうとう耐えられなくなった。でも、あそこでは、憎たらしい、頭の悪い、金持ちの女の子に、フランス語の動詞変化を教えていたの!」  「ロマンスを求めるほうが、ずっと楽しいですよ」  ジャネットは真剣にうなずいた。「そうよ。それこそわたしがしようと思っていることだわ。浅はかな、くだらないことだってことは、わかっている。でも今までずっと分別くさく生きてきましたからね。わたし、だんだん――だんだんかび臭くなっていくところだったのよ。女の子にはロマンスや魅惑や――ほかにもいろいろなものを求める権利があると思わない?そうして悪いことなんか、ちっともないでしょう?」  「もちろん。貨車一両がいっぱいになるくらいロマンスが見つかればいいですね。わたしも見つけたら、あなたのために追いかけて、四つ足を縛りあげてやりますよ」  ジャネットはもう一度ため息をついた。「話ができて、すっきりしたわ」彼女は急に真面目な顔でいった。「あなたは何を求めているの?」  「警官です」  「警察官?」ジャネットはわけがわからなかった。  「ええ、合衆国のね」  「あら、メキシコで何をしているの?」  「隠れているんです」  「どうして?犯罪をおかしたの?」  「まあ、そんなところかな」ドウンは無関心そうにいった。  「じゃあ、彼を見つけて連れ帰り、法に照らして処罰するのね」  「何ですって?」ドウンは驚いていった。「わたしが?とんでもない!わたしはずっと隠れていろと、説得しにいくんですよ」  「あら、どうして?」  「そうする目的で雇われたからです」ドウンは辛抱強くいった。  「理解できないわ。どうして隠れていろって、説得するように雇われたの?」  「彼はあなたと違うんですよ。メキシコが好きじゃないんです。スペイン語は話せないし、食べ物は消化不良を起こすし、メキシコ人は親切じゃないと思っているんです。これ以上ここにいるくらいなら――牢屋に入ることになったとしても――合衆国に帰ったほうがいいといってるんです」  「その人は帰国後、自首して、罪の償いをしたいってことね?」  「ええ」  「でも、あなたは、そうしないように説得しようとしているの?」  「説得しようとしているんではなくて、必ず説得するんです」とドウンは訂正した。  「でも、それって間違っているわ!法に反している!」  「説得じたい、法に反した手段を使いますからね」ドウンは平然と認めた。  ジャネットは大きく目を開いて彼を見た。「じゃあ、そんなことをするべきじゃないわ、ミスタ・ドウン。罪を申し出たいというのに、どうしてそうさせないの?」  ドウンはため息をついた。「この男――エルドリッジという名前なんですが――彼はベイ・シティの警察署長だったんです。そこで大きな収賄事件が起きて、大陪審捜査が行われました。市の行政にたずさわる、すべての人が関与していました。それで、エルドリッジをのぞく連中が、彼にメキシコへ逃げろと説得したんです。そして町ができてから起きたことは、みんな彼のせいだといったのです。もしも彼が戻ってきたら、昔の友人のなかには彼に余計なことをいわれる人がでてくるでしょう。彼らは今も役職についていて、それを手放したくないのです。でも、エルドリッジが秘密をばらしはじめたら、そうはいかない」  ジャネットはしばらくじっと考えこんだ。「なんだか、あんまり――あんまり、まっとうな話しじゃないみたい。事実関係は正確かしら、ミスタ・ドウン?」  「だいたい間違いないですよ」  「まあ」ジャネットはさらに考えこんだ。「それじゃ、市の役人たちは、エルドリッジが戻ってきたら、自分たちについて嘘の話しをすると思っているんじゃないかしら?」  「きっと嘘をいいますよ」とドウンは同意した。「真実をいおうったって、そうは問屋が卸さない」  「そうか、だからなのね!」ジャネットは勝ち誇ったようにいった。「ようやく理解できたわ」  「そりゃ、よかった」  「あなたが不正に手を貸すはずがないことは、もちろん、わかっていたけど」  「おや、とんでもない。わたしはそんな人間じゃないですよ」  道路は下り坂になり、二つの鋭くとがった岩山の頂きにはさまれ、深い影に包まれた、谷のようなところを抜けていった。白と黒の縞模様の板が、鉄道の踏切のようにゆっくりあらわれ、行く手をさえぎった。バルトロメが怒ったように甲高い声をあげ、急ブレーキをかけたため、バスのなかで固定されていないものは二十センチほど前に移動した。  バスが停止したとき、ラジエーターは板から三十センチしか離れていなかった。バルトロメは窓から身をのりだし、猛烈な金切り声をあげた。「このバスの邪魔をするなら厳罰を覚悟しろ!やんごとなき観光客を収容しているんだぞ!」  警告用遮断機の、支柱をかった白い軸のそばには、二名の兵士が立っていた。背は低く、顔は日に焼け、無表情だった。彼らはものものしくバスを見すえていた。  「こりゃ、どういうことだ?」ヘンショーが訊いた。  「前哨地です」とバルトロメが説明した。「極めて信じがたい能なし兵士にあふれています。進行阻害の許しがたき無礼を、どうぞ無視のほど、お願いします」彼はもう一度、兵士たちに向かってどなった。「このロバども!即刻、遮断機をあげろ!」  兵士たちは身じろぎもせず、冷然と凝視していた。小さな建物があった。そのあまりの小ささに、ドウンは昔ふうの屋根のキューポラを思い出した。急な岩の斜面に押しつけられるように建っていたのだが、今、そこから一人の男が出てきた。  「貴様!」バルトロメはけんか腰で叫んだ。「とびっきりの重罰が――」彼はちらと男の顔を見た。彼は口を開けたまま、それ以上、何もいわなかった。  男はバスに近づいてきた。戦闘服姿で、階級章を一つもつけていなかった。背の低い、ずんぐりした体型で、右の頬に幅の広い、白い傷痕があった。目は緑色のガラスのように冷たい。抑揚のない声で、くせのない英語を話した。  「何だ?」彼はバルトロメを見あげていった。「何がいいたい?」  バルトロメはつばをごくりと飲みこんだ。「これはホテル・アステカの観光バスでございます」彼はおとなしくいった。「いたって人畜無害でして」  ずんぐりした男はいった。「ロス・アルトス行きは取りやめるように要請したはずだ」  「わたしは関係ありません!」バルトロメが否定した。「わたしはホテル・アステカの所有者、三段腹の犯罪者に雇われているだけでして」  パトリシア・ヴァン・オスデルが席の横の窓を開けた。「いったい、どうしたの?なぜロス・アルトスに行けないの?」  「望ましくないからだ」  「なぜ?」  「ロス・アルトスには問題がある」  「どんな問題?」パトリシア・ヴァン・オスデルが訊いた。  「軍事機密だ。民間人の知ったことではない」  「ばかばかしい。わたしはこの旅行のために大金を払ったの。旅行は最後まで続けるわよ」  「理由は?」ずんぐりした男が落ち着きはらった声で尋ねた。  「えっ?そ――それは、景色を見て、現地の手工芸品を買って――」  「景色や手工芸品は、問題がなくなったあとも、消えはしない。わたしなら待つね」  「力ずくで止める気?」パトリシア・ヴァン・オスデルが訊いた。  「そんなことはしないさ、セニョリータ。愚か者と愚かな行為のあいだに立ちはだかる趣味はない。一応、警告しておいた。それでわたしの責任は終わりだ。あとは勝手にするがいい」  「そうさせてもらうわ!」パトリシア・ヴァン・オスデルはかみつくようにいった。「バルトロメ、出発よ!出発!」  兵士たちは警告用の板をどけ、バスはゆっくりとその横を通りすぎ、しだいにスピードを上げていった。パトリシア・ヴァン・オスデルの細い顔は紅潮し、息が荒かった。  ヘンショーが咳払いした。「なあ、あの強情そうな猿は誰だったんだ?」  「ナシオ将軍です」バルトロメは真面目な顔で答えた。「盗賊狩りの名人。最高最強の戦士です」  「でも、だからといって、わたしたちをおどす権利はないわ。どうして邪魔するようないい方をするの?結局、偉そうなところを見せびらかしたいのよ」  「兵士はいつだってバカさ」とグレッグがいった。  「君はどこの隊に所属しているんだ?」とドウンが訊いた。  「グレッグはこの旅行から帰りしだい、合衆国陸軍に入るのよ!」パトリシア・ヴァン・オスデルがぴしりといった。「そうでしょう、グレッグ?」  「いいや」  「ついでに訊くけど」とパトリシア・ヴァン・オスデルは返事を無視していった。「あなたはどうして入隊してないの、ミスタ・ドウン?」  「ああ、軍隊はやつの入隊を認めないぜ」ヘンショーがいった。「探偵とか、あの手の不道徳な連中は入れないっていう規則があるんだ」  「嘘だわ」ジャネットが抗議した。  「嘘じゃありませんよ」とミセス・ヘンショーが諭すようにいった。「兵士におかしな影響が及ぶようなことを、軍隊がするわけないわ」  ジャネットはドウンの肋骨をつついた。「どうして黙っているの?」  「品位を落とすような真似はしたくありません」ドウンは軽蔑するようにいった。「それはともかく、カーステアズは軍に所属していますよ」  「何ですって?」ジャネットは面食らった。  「本当です。彼は犬たちに飛行場などの警備の仕方を教えるんです。今は休暇中ですけど」  「どうやって教えるの?」ジャネットが不思議そうに訊いた。  「わたしが彼の助手兼通訳兼伝令です。わたしが彼に、犬たちの仕事の内容を伝えます。すると彼が犬たちに何回かそれをやって見せるのです。それから、わたしが犬たちに同じことをやれといい、従わない場合はカーステアズがよくいい聞かせるというわけです」  「どんなふうに?」  「見せてさしあげろ」ドウンは命令した。  カーステアズは眠そうに不明瞭なうなり声をあげた。  「それじゃだめだ。もう一度」  カーステアズは目を開けなかったが、電動丸ノコが丸太を切っているとき、釘にぶつかったような音を出した。ジャネットは飛びあがって、彼の頭から手をはなした。  「さっきよりましだな」とドウンはいった。「また、ねんねしていいぞ。しかし、いびきはお断りだ」カーステアズはあくびをして、なま温かい息を吐き出し、頭をジャネットの膝の上でもぞもぞ動かして、いっそう寝心地のいい場所に落ち着けた。 第四章  昼を過ぎたばかりで、太陽は水色の蒼穹に浮かぶ、灼熱した真鍮の玉だった。バスは二キロほどまっすぐ斜面を登り、頂上のヘアピンカーブをがたがたと苦労しながら曲がると、息を切らしてそこで停止した。  「皆様」とバルトロメはいった。「ここはほぼ最高のながめです。どうぞご嘆賞のほどを」  アセラ峡谷が眼下に広がっていた――目を疑うほど巨大な、生々しい、赤い岩の裂け目だった。植物はいっさい生えておらず、ぎざぎざした岩の層がむき出しで、生き物もどこにも見えなかった。動くものは、ただ、疲れを知らない陽炎だけである。斜面は彼らから遠ざかりつつ、どこまでも、どこまでも下にのびている。まだ形のできあがっていない新世界のような風景だった。その広大さを理解しようと、視線を谷のむこうへ移動させていくと、赤い色はしだいに青みを帯びたさび色になり、はるかかなたで鈍い、単調な茶色に変わった。さらにそのむこうには、急峻な山々がそそり立ち、のこぎり歯状の猛々しい山並みを地平線に浮かべていた。  「ほう!」ヘンショーが静かにいった。  ドウンはジャネットにいった。「あなたの話していた中尉――ペロナ――はあそこを越えてきたのですか?」  彼女は目を見開いてうなずいた。「ええ。ほとんどの道のりを徒歩で。馬が足をけがしていたから」  「鎧もつけて?」  「ええ」  「大した男だ」  「都会のゴミ捨て場みたいだな」ヘンショーがいった。「その七億倍もでかいが。何が住んでいるんだ、バーティ?」  「ガラガラヘビです」  「存分に這いまわるがいい」  「あの山のむこうのサンタ・ルチアまで二百四十キロにわたって道路も水もありません」  「そんなとこには行きたくないよ。ロス・アルトスはどこだ?」  「もうすぐです」バルトロメはブレーキをゆるめた。道路は山頂をうねりながら進み、谷は尽きることなく、変わることなく、不気味な辛抱強さで、あとをつけてきたが、不意に彼らは巨岩の壁にはさまれた、狭い道に入りこんだ。影が黒々と彼らを包んだ。  道はまっすぐにのび、長く、なめらかな降ろし樋のように傾斜していた。バルトロメは小刻みにフットブレーキをかけたが、バスはスピードを上げ、窓のところで風が息を呑むほどヒューヒューと鳴った。ドウンは奇妙な、かすかに歌うような耳鳴りがした。「おい、バーティ!」ヘンショーが危険を感じていった。  「どうかご静粛に」とバルトロメはいった。  タイヤのうなりがますます高くなったかと思うと、次の瞬間、岩のあいだの抜け道が突然切れて、洪水のように陽の光があふれ、道は綱渡りの綱のように、両脇に何もないところをまっすぐ、すっとのびていた。  「うげっ!」モーティマーが急に大声を出した。  ブレーキが怖ろしいうなりをあげ、摩擦材のむっとするような、焼けた臭いがバスのなかにたちこめた。タイヤは回転を止めたまますべり、もだえ苦しむ魂のように悲鳴をあげた。バスはガクンと揺れ、横滑りして、急停止した。  「皆様、ご覧ください」とバルトロメがいった。  息の根を止められたように沈黙が長く続いた。  ヘンショーがようやく咳払いした。「何がこの道路を支えているんだ?」  「道路ではありません。橋です。どうぞ下車して、感嘆の声を放ってください」  彼らはゆっくりと、身体を硬直させて車を降りた。バスという比較的安全な島から離れたくないようだった。カーステアズは坐りこんで、つまらなそうな、だまされたような顔をした。モーティマーは道の端まで這っていき、下をのぞいた。  「おい!」彼は押し殺したような声でいった。「下には空気しかないぞ!」  「そうじゃないかと思ったんだ」とヘンショーがいった。「早いとこ、ここを出ようぜ」  「ご覧ください」とバルトロメはくりかえした。「全長は両端で支えられているだけです」  彼らは状況を把握しはじめたが、道路が深い峡谷の上にわたされた、綱渡りの綱に見えることは変わりがなかった。陽の光も途中までしかとどかず、下に行くほど影が深まり、ついには底なしの茫洋とした濃いもやと一体化する、とてつもない峡谷だった。橋脚を支える鉄骨はクモの巣のように交錯し、クモの巣のように華奢でひ弱そうだった。風が熱く、よどみなく彼らの顔に吹きつけた。  「ブラック・シャドウの峡谷です」バルトロメが誇らしげにいった。「橋を通れば二分。橋のできる前は、ラバに乗って下りに二日、休息に一日、反対側を登るのに三日――計一週間を要しました」  「ペロナもここを越えたのですか?」とドウンが訊いた。  ジャネットは下の影を見ながらうなずいた。「ええ。はじめて見たとき、道案内にここを越えてむこうに行けるといわれても、信じられなかったの。部下を危険にさらしたくなかったから、彼は一人で谷に下り、反対側を登り、それから戻ってきて、ほかの人を連れていったのよ」  「そりゃあ会ってみたかったな」  ドウンは誰かが目印に残した、大きな白い石を見つけ、持ち上げて端から落とした。それは陽の光を受けてきらめき、まっすぐ影のなかに落ちこんで、消えた。全員が聞き耳をたてて待った。  音はしなかった。  「あの石は政府の所有物だったのですよ」バルトロメがきびしい口調でいった。  「すぐ降りて取ってくるよ」とドウンがいった。「パラシュートを貸してくれ」  「家に帰りたいよ!」モーティマーが泣き言をいった。  「ロス・アルトスはどこだ、バーティ?」ヘンショーが訊いた。  「あそこです」  峡谷の反対側、はるか上のほうに、赤い屋根と白い壁が見えた。澄んだ空気のなかに、こぎれいな、優美な姿を見せるそれらは、何も生えていないらしい崖っぷちにへばりついていた。  「行こう」とヘンショーがいった。  彼らはまたバスに乗り、バスは糸のようにのびた橋を渡りきると、新しい道路よりももっと狭く、蛇行する道を登りはじめた。バルトロメはカーブにさしかかるたびに警笛を鳴らした。  「ロバです」と彼は説明した。「よく道路を歩いていて、交通の邪魔をします」  道に沿って岩棚を登り、いびつな、尖塔のような頂上をしばらく進み、下りに入って、もう一度、道を曲がると、そこはロス・アルトスだった。  通りは狭く、黒い石ででこぼこに舗装されていた。急な階段の踏み段を思わせる地形で、段の上と下に家々が建ち並んでいた。家の壁は近くで見ると、それほど白くも、こぎれいでもなかった。それらは虚ろな、年を経た顔だった。しわのような割れ目がジグザグに走り、鉄格子のはまった小さな窓が目で、鉄の飾り鋲を打ちつけたドアが口だった。  人気はまったくなかった。バスは放心したように低い音をたてながら、市が立つ広場の前の、道が広くなったところまで来た。広場は空っぽだった。  「ここはゴーストタウンか?」  バルトロメはあんぐりと口を開けていた。歩道脇にバスを停め、外に出ると、あたりを見回した。両手を目の上にかざして見、下ろしてからも、もう一度見た。やはり広場は空っぽだった。彼は車に戻り、何度も大きく警笛を鳴らした。その音は周囲に響きわたったが、何も起きなかった。  「ここには誰もいません」彼は小さく、信じられないといった声を出した。「これは不可解」  乗客は一人一人バスから降り、ひとかたまりになって通りに立った。不安そうな目つきだった。  「どういうことだと思う?」ジャネットがドウンにささやいた。  「さあ。しかし悪い予感がしますね」  耳障りな、鈍い銃声がして、よどんだ音がこだました。その直後に広場のむこうの狭い路地から、男が一人飛び出した。ガルシアがおのれの運命に近づいてきたのだ。手にはまだピカピカ光る拳銃を握りしめていたが、もはや事態を掌握しているとはいえなかった。大きく、うめくように息をし、立ち止まって足を踏ん張ると、二度、路地にむかって発砲した。  「革命だ!」ヘンショーが震えあがった。  「革命は禁止です」バルトロメは感覚を失ったように茫然としていた。  ガルシアは振りかえり、彼らのほうにむかってきた。口を大きく開けて苦しそうに息をし、目はどんよりとして血走っていた。三十歩と離れていないところまで来て、ようやくバスと乗客たちに気がついた。  彼がつまずいて横によろめくと、光る拳銃が手のなかで飛びはね、再びうなりをあげた。弾は金属音とともにバスの側面に当たった。突然、叫び声のコーラスがわきおこり、ミセス・ヘンショーがか細い、あわあわという悲鳴を発した。  ドウンは左手をジャネットの肩に当て、強く押した。右手は上着の下から銃身の短い、小型の銃を取りだした。タバコのライターを取り出すような、なにげない仕草だった。彼は膝でカーステアズをどけ、ゆっくりとガルシアにむかって歩いていった。  「銃を捨てろ」普通に話しかけるようないい方だった。「今すぐだ」  ガルシアは彼を狙って発砲した。弾はドウンの頭上を越えて、どこかの壁にぶつかり、大きな音とともに跳ねかえった。ドウンが銃を撃つと、ガルシアは急に舗石の上に坐りこんだ。無表情な、唖然とした顔つきだった。彼はドウンを凝視した。並びの悪い歯が、細い口ひげの下で白く光り、彼はゆっくりと右手を持ちあげた。  ドウンの二発目は口に命中した。ガルシアはうしろに倒れ、頭が地面にぶつかるとき、湿った、くぐもった音をたてた。彼は二度と動かなかった。カーステアズがドウンのうしろから低くうなった。  「わかっている」とドウンはいった。彼は前かがみの姿勢で全身を緊張させ、ガルシアのあらわれた路地を見つめた。  二人目の男が飛び出してきて、とっさに片膝をついた。銃身の細くて長いルーガー自動拳銃を持っている。  「アルト アイ!」彼は鋭く叫んだ。「マノス アリバ!」  「おまえもだ」とドウンはいった。  二人は長々とにらみあっていた。膝をついていた男がとうとう頭をかすかに横にむけ、縮こまっている乗客と停車しているバスに気づいた。彼は急に笑顔を浮かべ、一度うなずいた。彼は流暢な、なまりのない英語を話した。  「銃をしまいたまえ」  「そっちこそ」  男は笑ってルーガーを上着の内側にすべりこませた。彼が着ている黄褐色のギャバジン・スーツはしわが寄り、ほこりに汚れていた。彼は若くて非常に背が高く、身のこなしはすばやく、自信に満ちていた。顔だちは細く、整っていて、目は深い青灰色だった。そのなかにはおもしろがっているような、小さなきらめきがあった。彼は立ちあがってガルシアに近づくと、茶色のオックスフォード・シューズのつま先で何気なく身体をつついた。ガルシアの頭はだらんところがっていた。血がぬめぬめと口の端から流れていた。  「死んだか」と背の高い男はいった。「残念だ」  「そいつにとってはね」とドウンがいった。  背の高い男はしげしげとドウンをながめた。「なるほど。背が低く、人当たりのよさそうな、小太りの男で、とてつもない犬を連れている。来ることはわかっていたが、これほど早いとはな。名前は何といったかな?そうだ!ドウン!人に危害を与えるとは思えない、愚鈍な顔つきの探偵」  「わたしもあんたの顔つきは知っている」とドウン。「しかし名前は?」  「エミール・ペロナ大尉だ」  「まあ!」ジャネットが叫んだ。  ペロナが彼女を見た。「何です、セニョリータ?」  「まあ」ジャネットは目をまん丸く見開いていった。  「何なんです、セニョリータ?」ペロナ大尉は丁寧に訊いた。「気分が悪いのですか?」  「いいや」とドウンがいった。「ちょっと驚いているんだ。わたしもだよ。この前、あなたの噂を聞いたときから、出世したんだね。もっとも四百年あれば、誰でも中尉から大尉に昇進するだろうけど」  「何だと?」  「最近、コルテスはいかがお過ごしかな?」  ペロナ大尉は顔をしかめた。「たぶん、自分で思っていたほど、あなたがたの言葉が理解できていないのでしょうな。コルテスといえば、この国を探検し、征服した、あの偉大な人物しか知らない」  「まさにその人だよ。彼の手足となって働いていたでしょう?」  「おかしなことをいわないでくれたまえ。くだらないことをいって、わたしの不信感をそらそうとしても無駄だ。わたしの祖先――初代エミール・ペロナ――はコルテス配下の中尉の一人だったが、それは君とは何の関係もないし、君がここにいることとも関係がない――ちなみにいうが、君がここに来たことは、残念であるだけでなく、望ましくないことでもある」  「そりゃどうも」  ペロナ大尉はガルシアを指さした。「われわれは警告を受けていたのだ。君が近くにいると、こういうことが起きるとね」  「誰かがあなたをかつごうとしたんだよ」  「君はこの男を撃った」  「ああ、確かに。しかし、この男が先に撃ったんだ。誰にでも訊いてみてくれ。わたしを狙って二回も発砲し、おまけにもう一発撃つところだった。それをどうしろというんだい――標的みたいに突っ立ったまま、大声を出せとでも?」  「彼のおかげで、わたしたち、助かったのよ」ジャネットが憤慨していった。  ペロナ大尉は彼女を見、その目が急に鋭くなった。「わたしの名前を聞いたとき、なぜあんなに驚いたのです?」  「だ、だって、ちょうどここに来る途中、もう一人のエミール・ペロナについて話しをしていたんですもの」  「どうして?」  「本で読んだから――」  「何の本で?」  「コ、コルテスの報告書――」  「例の日記も読みましたよね」とドウンが思い出させた。  「日記だと!」ペロナ大尉がどなった。「何の日記だね?」  ジャネットは戸惑いながらいった。「その――その――」  ペロナ大尉は大股に、襲いかかるように、彼女に一歩近づいた。「何の日記だね?」  ジャネットはつばを飲みこんだ。「ジル・デ・リコの日記」  「はっ!」ペロナ大尉は勝ち誇ったように息を吐き出した。「そうだと思った!」  兵士が一人、へとへとになりながら路地から小走りにあらわれ、広場をこちらにやってきた。バスと乗客を見ると、急に止まってライフルを構えかけた。しばらく疑わしそうにそこに立っていたが、すぐうしろをむき、路地にむかってどなった。  「アキ!アキ エスタ エル カピタン!」  彼は銃剣を物騒なくらいぎらぎらさせて、彼らのほうに歩いてきた。三人の別の兵士が路地から出てきて、そのあとに従った。  「よう、おやじ」とモーティマーがいった。「こいつ、頭のうしろがないぜ。くちンなかは、歯のかけらと血でいっぱいだ」  「モーティマー!」ミセス・ヘンショーがいった。「こっちに来なさい!見ちゃいけません!」  「なんでだよ?」モーティマーは納得できないといった調子でいった。「去年の夏、交通事故で見た二人みたいに、輪切りになっちゃいないぜ」  「警察を呼んで!」ミセス・ヘンショーが悲鳴をあげた。「警察!」  ペロナ大尉がいらいらと彼女を見た。「セニョーラ、お静かに。わたしが警察です」  「何の警察なんだい?」とドウンが訊いた。  「軍秘密警察」  これは本当のようだった。というのは、最初の兵士――赤ひげを生やした、かんしゃく持ちのオブリアン軍曹――が近づいてきて、ペロナに敬礼し、命令されるのを待ち受けたからである。  ペロナ大尉はぞんざいにガルシアをさして、「どこかに片づけろ」といった。  「かしこまりました、大尉殿」  「ところで君らは、どういう軍隊なんだ?」とドウンが訊いた。  「メキシコ陸軍だ、ぼけなす」とオブリアン軍曹は答えた。「わたしは貴様らの言葉が話せる。ダブル・ニューヨークでウエイターをしていたからな」  「どこだって?」  「ニューヨーク、ニューヨークだ。あそこはニューヨーク・シティじゃない――知らなかったか?ニューヨークなんだ。メキシコ・シティがメキシコなのと同じだ」  「死体を持っていけ」とペロナ大尉がいった。  「シ、カピタン!」とオブリアン軍曹は返事した。  彼は三人の兵士にどなった。そのうちの一人――セレス二等兵――は、目のまわりに黒いあざを作り、足を引きずっていた。彼らはライフルを肩にかけ、ガルシアを持ち上げると、通りをむこうへ運んでいった。やせた足が一本、だらんと垂れ下がり、かかとが舗道にこすれて、陰険な、ざらざらという音をたてた。  ペロナ大尉はジャネットから目を離していなかった。「その日記はどこですか、セニョリータ?」  「えっ?」  「持っているんでしょう?寄こしなさい」  「あら、も――持ってないわ――」  「嘘をついてますね」  「これが昔のメキシコの作法なんだね」とドウンがいった。  ペロナ大尉はつっけんどんにいった。「黙っていろ。わたしには大切なことだ。その日記はわたしの一族のものだ。非常に貴重な家宝なのだ。返してもらう」  「ウィステリア・ヤング・レディース・セミナリーで尋ねることだな」とドウンが忠告した。  「どこだって?」ペロナ大尉はぽかんとして訊いた。  「わたしもそんな学校があるとは信じられなかったが、しかしあるんだ。彼女はそこで先生をしている。そこで彼女は日記を読んだんだ。日記は学校の所有物だ」  「違う。わたしの所有物だ。学校で日記を見つけたというのは本当ですか、セニョリータ?」  ジャネットはうなずいた。「ええ」  「学校の所在地は?」  「オハイオ州バレー・ビュー」  「すぐそこに行こう」  「ちょっと待った」とドウン。「行く前に、いろいろ説明してくれないか」  「何を?」  ドウンは大きく手を広げた。「撃ち合いのこととか、兵士のこととか、死んだ男のこととか、住民がみんなどこに隠れているかとか――」  住民のことは、もはや訊く必要はなかった。舞台上の群衆のように、突如、彼らはぞろぞろと姿をあらわしたのだ。通り沿いのあらゆるドアと、ほとんどの窓が、それぞれ数人の人間を吐きだした。彼らは息を切らしてかけずり回り、けたたましく木製のシャッターを上げ、陳列台を路上にひきずりだした。誰かが銅鑼を鳴らし、小さい女の子が甲高く叫んだ。  「このお店、英語しゃべる、とても親切。値段、いちばん、どれも安い!こっち、こっち、こっち!きれい、きれい!安い、安い!」  「しゅけべなしゃしんはどうでしゅ?」狡そうな小男がドウンの耳もとでささやいた。彼はペロナ大尉ににらまれ、一吹きの煙のように人混みのなかに消えた。  太った、まるまるした肩つきの女がミセス・ヘンショーを相手取っていた。「セラーペ!わかる?手編みの、とってもきれい!安いよ!」  三匹の雑種犬が近づいてきて、カーステアズに吠えかかった。カーステアズは目を閉じ、うんざりした顔をした。ドウンは指の付け根で頭をコツンとたたき、こういった。  「今はやっちゃだめだ」  「何をしたの?」ジャネットが訊いた。  「まだ何も。彼は雑種がきらいなんですよ――特に吠えかかるやつは。今、いちばん近くのやつの足をかみ切ろうとしていたんです。カーステアズ。落ち着け」  カーステアズは目を開け、敵意もあらわに、三匹の雑種犬をにらんだ。彼らはすばやくその場を去った。  「こちらに来てください」とペロナ大尉がいった。彼はジャネットの腕を取り、彼女を守るように群衆のなかを進んだ。店のあるじや土産物店の売り子は、大尉が顔をしかめただけで引っこんだ。ドウンはそのすぐうしろについていた。  群衆を抜けると、ペロナ大尉はジャネットにいった。「失礼な口をきいたことを許してください。あの日記を取り返したくてたまらないのです。もう何年もずっと探しているのです」  「邪魔したくないんだが」とドウンがいった。「わたしが殺した男のことを教えてくれないか?」  ペロナ大尉は肩をすくめた。「あんなことはしなくてもよかったんだ、実際。迷惑だね」  「そりゃそうだろう。しかしあいつは何者かね?」  ペロス大尉はまた肩をすくめた。「たしか、ガルシアと自称していたはずだ。あいつ自身は小物にすぎない。トレスマリアス諸島からわざと脱獄させたのだ」  「何諸島だって?」  「聞いたとおりだ」  ジャネットがいった。「メキシコの刑務所よ。アルカトラズみたいな島なの。兇悪犯人専用の」  ペロナ大尉はうなずいた。「その通り」  「脱獄させたといったね」  「そうだ。わたしの命令だ。共犯者を見つけるために、彼のあとを追うつもりだった。ここまでうまく追跡してきたのだが、共犯者がわたしの部下にガラガラヘビを投げつけ、部下が震えあがって叫び声を出し、ガルシアに監視がばれてしまった」  「ガラガラヘビ?投げた?」  「そうだ」  「その共犯者は相当なワルなんだろうな。探し出そうとするのも無理はない。で、どうだった?」  「見つけたか、ということかね?いいや。しかし、今や彼がここロス・アルトスにいることは間違いない。だからもうじき見つかるだろう。町中、ガルシアを追い回せば、そのうち共犯者が助けに来るとふんでいたのだが、君のおかげでその可能性もなくなった」  「ところでその共犯者というのは誰だね?」  「軍事機密だよ」ペロナ大尉は丁寧に、しかし断固としていった。  「そうなのか。じゃ、わたしはどうすればいいんだ?牢屋にでも閉じこもろうか?」  「そんなことはしなくていい。上層部には正式に報告を出しておく。ここは軍管区だ。君はセニョール・エルドリッジに会いに行きたまえ。彼は革命通りに住んでいる――三つ先の通りを南へ一ブロックだ。わたしはセニョリータと話しがある」  「それでいいですか?」ドウンはジャネットに訊いた。  彼女は少し戸惑いながらうなずいた。「小さい教会が見たかったの――」  「それなら知っています」とペロナ大尉がいった。「もう教会じゃなくて、博物館として保存されていますが。ご案内しましょう」  「それじゃ」とドウン。  ペロナ大尉がいった。「ちょっと待ってくれ。さっきもいったように、われわれはおまえがここに来ることは知っていた。セニョール・エルドリッジに面会することは許可する。しかし合衆国に帰りたがっている彼に、それを断念するよう、なぐったり、打ちすえたり、拷問を加えたりして説得してはならない。彼に危害を加えた場合は、きびしく責任を追及する」  「わたしが?拷問する?」  「君の捜査のやり方については聞いている」ペロナ大尉は強くいった。「それはメキシコでは許されない。警告しておくぞ」  「了解した。さあ、来い、カーステアズ」 第五章  革命通りは道幅が狭くて、曲がりくねり、ほこりっぽいうえ、急な坂につけられたため、道じたいが斜めにかしいでいた。家々は本通りに建つそれよりも古くて傷んでおり、屋根から瓦が抜け落ち、壁の隅の漆喰がはげていた。  どうやらここの人々は銃撃が終わったのか、確信が持てないでいるらしい。格子窓から顔がのぞき、ドウンとカーステアズを見るのだが、通りには人っ子一人いなかった。数匹の犬がカーステアズの取り調べに隠れていたところから出てきた。カーステアズはのらくらと壁のにおいをかぐふりをしながら、目の端で彼らを見張っていた。  ドウンが膝でうしろから彼をつついた。「行け。歩き続けろ」  カーステアズは見物客のほうに顔をむけ、上唇をむいて見せた。犬たちはたとえようのない恐怖に襲われ、キャンキャンと鳴きながら去っていった。カーステアズは傲然とドウンの先に立って歩いた。彼が道の角で立ち止まり、けげんそうに耳を立ててまわりを見ると、ドウンもその横に立ち止まってまわりを見た。  道の角にはぽつんと画架だけが残されていた。インディアンのテント小屋の骨組みを小さくしたような形をしていて、その上に大きなカンバスがのっている。画家の姿はどこにもない。  ドウンは画架のそばに近づき、カンバスをじっと見た。それは半分しか仕上がっていない絵で、彼は何が描かれているのだろうと、ためつすがめつしてながめた。  「おい、あんた!」  ドウンは振りかえり、一瞬後、声の出どころをつきとめた。通りをへだてたむこうの家の、正面ドアにあけられた格子入りの銃眼から聞こえてくるのだった。  「何です?」  「あのドンパチ野郎はとっつかまったか?」  「ええ」  「間違いないか?」  「まあね」  ドアが開いて、女が出てきた。背が低く、ずんぐりして、肩幅が広かったが、太ってはいない。たてがみのような白髪が、古いブーツを思わせるしわだらけの、日焼けした顔のまわりをぼうぼうと取り巻いていた。オレンジ色の画家用スモックを着用し、くたびれたモカシンを履いている。  「馬鹿でかい音をたてやがって。通りで撃ち合いかよ。あれじゃ、絵なんて描いていられねえ。あんた、名前は?どっから来た?」  「ドウン。合衆国」  「アマンダ・トレーシーだ。あたしのこと、聞いたことあっか?嘘はつくな」  「ないよ」  「それでいい。ゲージツはわかるか?」  「いいや」  「結構。あの絵をどう思う?」  ドウンはもう一度じっくりながめた。「そうだな――」  「ろくでもねえだろう?油が固まったフライパンのなかの、冷えきった目玉焼きに見えるだろう?」  「ああ」  アマンダ・トレーシーが勢いよく背中をたたいたものだから、ドウンの首はグキリと鳴った。「よくいった、でぶっちょ!こいつは売れるぜ!ひでえものは売れるんだ。どんなときでもよ。絵を描き始めたときのために、覚えておきな」  「わかったよ」ドウンは首をそっと撫でながらいった。  アマンダ・トレーシーはカーステアズを指さした。「あの竹馬にのった奇形児はどこで手に入れた?」  「サイコロ賭博でね。それから彼は奇形児じゃない。立派な犬だよ」  「本当にいい犬は死んだ犬だけさ、ドウン。ペットを飼うのはとんまと変態しかいねえ。あんた、変態かい?」  「いいや。とんまなだけさ」  「そりゃよかった。あたしはとんまが好きだからね。ぺちゃくちゃうるさい、あのぼんくらバルトロメとバスで来たのか?」  「ああ」  「ほかにもとんまを連れてきたか?」  「二人ほどね」  「金は持っているのか?」  「たんまりと」  アマンダ・トレーシーはカンバスごと画架を持ち上げた。「それじゃ、下の市場で、うんとこゲージツ家ぶって絵を描こう。カモから十セントか二十セントまきあげられるかもな。あばよ」  「待ってくれ。エルドリッジが住んでいるのはどの家か知っているかい?」  「まさか、あんた、あの口先ばっかりうまい、飲んだくれのダチ公か?」  「友達じゃないよ。しかし、どの家なんだ?」  「角を曲がって二軒目だ。じゃ、またな、でぶっちょ。やばいことに首を突っこむな」  「わかったよ」  ドウンは彼女が画架をひきずりながら、ぐんぐん角を曲がり、坂を下っていくのを見ていた。  「たいした女だ」彼はぼんやりカーステアズにいった。「さあ、行こう」  彼らは角を曲がった。二つ目の家は近所からやや離れて建っていた。正面窓の格子は、ほかの家のものより新しくて太く、装飾が目的ではなかった。左右は窓のない壁に高々と仕切られていた。  せりもち造りの広い正面ドアには、あぶみの形のノッカーがついていた。ドウンはそれを強く鳴らした。家のなかでこだまがしめっぽく、どんよりと響くのが聞こえたが、誰も出てこなかった。  ドウンはしばらく待って、もう一度、さっきよりも強くノッカーを鳴らした。それでも応答がない。彼は長い錬鉄製の掛け金をいじってみた。カチリと音がして、大きなドアが音もなく、ゆっくり内側に開いた。カーステアズが低くうなった。  「黙れ」  彼は狭い玄関に足を入れた。よどんで、湿った、冷たい空気を顔に感じた。目をしばたたいて深い暗がりに慣れようとした。玄関の床は石敷きで、壁はほんのりと白い。  ドウンはカーステアズのほうを振りむいた。「入ってこい、まぬけ」  カーステアズのうなり声が少し高くなった。入り口のところで足を突っ張り、頭を低くした。目が鈍く光っている。ドウンは突起のついた首輪をつかんで、彼をなかに引きずりこんだ。「気まぐれをおこすな」  カーステアズの爪が床をひっかいていると、どこか悲しげな、しゃがれ気味の声がいった。「血のにおいをかぎつけたんだよ」  そうしゃべった男は、廊下の少し先、垂れ布をかけた戸口の陰に立っていた。顔は見えなかったが、背が低く、がっしりしていて、右手に拳銃を持っていた。  ドウンはカーステアズを放し、ゆっくり身体を起こした。「エルドリッジか?」  「そうだ」  「その拳銃は、近い将来、使うつもりか?それとも小さい子供たちを脅かすために持ち歩いているだけなのか?」  「ああ、これか?実は、何ていうか、臆病になっているんだな。君はドウンだね。犬でわかったよ。こんなに早く来てくれるとはありがたい。飲むかね?」  「もちろん」  エルドリッジは廊下を抜けて、明るい壁に囲まれた、タイル敷きのパティオに出た。ヤシの木や、レースのように繊細なふちどりの緑のシダが生え、中央には噴水があって静かな水音を立てていた。  カーステアズはのんびりした足どりでそこへ行き、ぴちゃぴちゃと水を飲むと、鼻面からしずくをたらしながら、ドウンを見た。ドウンが彼を見ると、彼は家の裏壁に沿って生えているシダに半ば隠れている、緑のゴミ箱のほうへ進んだ。彼は一度、それにむかって鼻を鳴らし、戻ってくると、噴水のそばに坐りこんで、気持ちよさそうにハアハアと息をした。  「あの箱には何が入っているんだ?」  「彼がかぎつけたのはあれだよ。見てごらん」  ドウンは近づいて、蝶つがい付きの蓋を持ちあげた。箱は空のカンとビンで半分埋まっていた。その上に汚れた黒いモップのような子犬が横たわっていた。目はひっくり返り、紫色の舌が歯のあいだから突き出ている。喉がかき切られていた。  「すてきなものが入っているな」ドウンは蓋を落としながらいった。「夕食に取ってあるのか?」  「そいつはいい犬だった。あんたのみたいに派手さはないが、人なつっこい子犬だった。わたしを好いていたと思う」  「あんたが殺したんだね」  「おい、ドウン。わたしがそんなひどいことをするはずないだろう」  「じゃ、誰がやったんだ?」  「とある男さ」エルドリッジは曖昧にいった。「わたしを嫌っている男がやったんだろう」彼のほんのり青みがかった目には赤い血管の筋が走り、今のようにくつろいでいるときでさえ、手はかすかに震えていた。がっしりした身体は衰え、自分を哀れむかのようなたるみができていた。「坐れよ、ドウン」  ドウンは生皮を張った安楽椅子に腰をおろした。エルドリッジは家の裏壁に押しつけられていた、別の安楽椅子のほうへゆっくり歩いていった。彼は大きく息をしながら、難儀そうにそのなかに沈みこんだ。  「一杯飲むかね、ドウン?」  「気は変わってないよ」  「コンチャ!ウイスキー!」  パティオの裏のドアから娘が一人あらわれた。盆に酒瓶とグラスを二つのせて運んできた。若くて、すらりとした、しなやかな肢体を持ち、黒髪が陽の光をあびて濃いあい色に光っている。恥ずかしそうに目を伏せているのは、ドレスの胸ぐりを深くしたばかりだったからだ。  「一杯ついでさしあげろ。ジョニー・ウオーカーの黒だよ、ドウン。チェイサーか割るものがいるかね?」  「いいや」ドウンはコンチャを見ながらいった。「この便利なお人形さんはどこで見つけた?」  コンチャはエルドリッジに盆をさしだし、彼は八本の指幅の高さまで酒を注いだ。  「この人はこの前話したドウンさんだよ、コンチャ。コンチャはわたしの妻だ、ドウン」  「二人目か?合衆国に残してきたほうはどうした?」  「ああ、離婚したよ」  「むこうはそれを知っているのか?」  「知らんだろうね。話すひまがなくってさ」  ドウンは一口飲もうとグラスを持ちあげ、その縁越しにコンチャを見た。彼女は目を伏せていなかった。ドウンを見る目は純然たる憎悪を含み、その激しさは三メートル離れていてもまざまざと感じられた。彼はそっとグラスをおろした。  「こっちにおいで、べっぴんさん」彼は静かにいった。「君が先に一口飲んでくれ」  コンチャは近づくと彼の手からグラスをもぎ取った。彼女は酒を飲まず、パティオの壁にグラスを投げつけた。ガシャンという音がして、まっ白い漆喰の上に、みにくい、小さな、はねの痕がついた。  「おいおい、コンチャ」エルドリッジがおだやかにいった。  コンチャは裏口から戻り、乱暴にドアを閉めた。  「人見知りするたちでね」とエルドリッジはいった。  「そりゃわからなかった」  「君の酒に毒を入れたりしないよ。だいたい毒については、わたしと同じくらい無知だから」  「だからこそ心配だったのさ」  「じゃ、ビンから直接ラッパ飲みしたまえ」  「遠慮しておく。あんたが二人分飲んでくれ」  「いいだろう」エルドリッジはウイスキーをがぶりと飲んで、満足そうにため息をついた。「ところで、ドウン、連中はいくら出すつもりだ?」  「誰が何をいくら出すっていうんだ?」  「金だよ。やつらはいくら払う気だね?」  「ああ、そのことか。小数点ゼロゼロドル出すといっていた」  「小数点ゼロゼロ――」エルドリッジはぎょっとして背筋を伸ばした。「何だ、そりゃ?何も出さんということか?」  「正解」  「おい、そりゃないだろう!さっそく合衆国に戻って大騒ぎを起こしてやる!」  「それは無理だ」  「なぜだ?」  「ようく見ろ」  「君をか?つまり君がわたしにそうはさせないということかね?」  「そうだ」  「はっ!」エルドリッジはもう一杯やりながらいった。「ふむ、そんなことはできんよ。かりに君が――しばらくのあいだだけ――わたしを止めることができたとしても、君がいなくなればすぐ戻ることができる」  「あんたを止められるものを一つだけ知っている」  「何だね?」エルドリッジは疑わしそうに訊いた。  「葬式だ。あんたの」  「なるほど、そうだなあ。わたしが死んだら、戻ることは――おい!そりゃ、どういう意味だ?」  「あんたが考える通りの意味さ」  エルドリッジは膝の上に拳銃を置いていた。今、彼はそれを取りあげ、警戒するように視線を銃からドウンに移動させた。ドウンは筋肉一つ動かさなかった。エルドリッジは再び銃を置き、もう一杯酒をあおった。  「メキシコでそんなことはできんよ」彼は弱みを見せまいとむきになっていった。「君はこっちには何のコネもない。わたしにはある」  ドウンは肩をすくめた。「あんたがベイ・シティをずらかったとき、地区検事長をしていた男を覚えているか?」  「バンピイのことか?もちろんだ。あのへらへらした小ネズミなら覚えている」  「彼はもうじき州知事に選ばれる」  「バンピイが?」エルドリッジは信じられなさそうにいった。「州知事?」  「そうだ。誰かがこっちで面倒を起こす。バンピイはそいつに反逆罪とか殺人とかの罪を着せて、メキシコ政府に送還を依頼する。そいつがメキシコを出たら、すぐさまバンピイは罪状を取り消す」  エルドリッジは目を見開いた。「バンピイのアイデアじゃないな――あいつは頭が悪すぎるからな!」  「わたしが考えたんだ。ここに来る前に」  「策士だな、君は!」エルドリッジは感心するようにいった。彼はしばらくじっと坐って考えていた。「君はこの仕事でいくらもらえるんだ?」  「給料分だけだ――一週間で百五十ドル。この仕事には四週間かかると思っていた。四週間たったら、経費としてさらに四百ドル請求できる」  「千ドルか。悪くないが――よくもないな。急いでもう千ドル稼ぐ気はないか?」  「願ってもない」  「うむむ。バンピイのやつ……州知事ときたか……そうなると事情は変わってくる。ドウン、わたしがこの汚い町を気に入らんといったのは冗談でも何でもない。ここの人間は友好的とはいえん。わたしを好いていないようだ」  「どうしてなのか、わけがわからんね」  「わたしもだ。それがいまいましいのだ。まるでわたしが法を犯したみたいじゃないか。逃走中の犯人というのなら、話しは別だ。だが、わたしの受け取った贈り物に関して、ちょっとした誤解があったからって――いいかね、警官は誰でもまっとうなわいろを受け取るものだ!君もそれは知っているだろう、ドウン」  「ああ、わかっているよ」  「しかし、牢屋に行きたいといったのは、いうまでもなく、冗談だ。まともな人間が牢屋に入りたいなどと思うわけがない。連中をちょいと震えあがらせようとしただけなんだ」  「ああ、わかっているよ」とドウンは同じ言葉をくりかえした。「たしか千ドルがどうとか、いっていたな」  「今、その話しをするところだ。バンピイが州知事になるなら、わたしは牢屋には入らん。あいつのことなら、六回、絞首刑にしてやれるくらい、いろいろ知っているんだ。あいつはわたしにむかって、くしゃみだってできないだろうよ。それどころか、あの州をわたしのものみたいにすることだってできるんだ、ドウン!聞いてくれ。かりに君がこの仕事に失敗するとして――かりにわたしがすぐさま合衆国にあらわれたとして――君は君が働いている探偵事務所をクビになるのか?」  「いいや、クビになんかできるものか。組織のことを知りすぎているからな」  エルドリッジはうなずいた。「そうだろうと思ったよ。よし、ドウン。国境を越えて合衆国に行かせてくれたら、その日に千ドルをやろう。それ以上はぼろうとしても無駄だよ。持ってないんだから」  「よし、決まりだ」  「だめ!」コンチャが叫んだ。小さなつむじ風のように裏口のドアから出てきて、エルドリッジの椅子の前に立ち、地団駄を踏んだ。「だめ!この酔っぱらい!大嘘つき!大学のお金は持っていかせない!だめ!」  「どういうことだ?」とドウンが訊いた。「大学に行くつもりなのか、エルドリッジ?」  「違う。コンチャが行くんだ。演劇学校だ。ハリウッドの。彼女は映画俳優になるんだ」  「おやまあ」  「大嘘つき!」コンチャがエルドリッジにいった。「入れてやるって約束した!泥棒!」  「なあ、おまえ」  コンチャはドウンを指さした。「どうしてこの人にお金をやるの?どうして、どうして、どうして?この人、何でもない。警官ですらない!」  「彼は私立探偵だよ」  「ふん!ここじゃ違う!あたいの国じゃね!ここじゃ見かけ通りの、ただの人!脂肪をいっぱいくっつけて、おっきな、ぐずのワン公を連れている、小男にすぎない」  「その通りだ」ドウンは平和そうに眠っているカーステアズを見ながらいった。  コンチャは両足を一本ずつならした。「わたしのお金、渡させない!だめ、だめ、だめ!」  「なあ、おまえ。どうして聞き分けてくれないのかなあ。千ドルだよ!はした金だよ!腐れ金じゃないか!わたしが合衆国に戻ったら、バンピイは州財務局の金庫の鍵を渡してくれる。わたしは好きなときになかに入って、ポケットを一杯にすることができるんだ。おまえに映画スタジオを買ってやろう――専用のやつをな」  「ふん!ほら吹き!」  「さあ、さあ。機嫌を直してくれ、おまえ」  「わたしを捨てるのね!このデブと逃げ出して、わたしを捨てるのね!」  「ああ、コンチャ。わたしがそんなことをするわけがないだろう。おまえを愛しているんだよ」  「ふん!なにさ!つばかけてやる!」  「おまえや」エルドリッジはなだめすかすようにいった。「わたしはおまえを有名にしてやるぞ。世界一の女優にしてやる。毛皮のコートに、ドレスに、屋内トイレつきの家だって買ってやる。本気なんだぞ!」  コンチャはのしかかるように彼に近づいた。「臆病者!」  「臆病者なものかね!」  「バウティスタ・ボノフィレ!」コンチャはあざけるようにいった。  エルドリッジはかすかにたじろぎ、急いで酒をあおった。  「そら、見なさい」コンチャは冷笑した。「ゼリーみたいに震えている!デブに金をやって、バウティスタ・ボノフィレを追い払おうと思っている。ふん!バウティスタ・ボノフィレはデブなんか一口さ。クチャ、クチャ、クチャ!それから、あのおっきな犬も一口よ。クチャ、クチャ、クチャ!」  「勘違いしているよ、コンチャ」とエルドリッジはいった。「これはただのビジネス上の取引だ。わたしらはどかんともうけて、金持ちになるんだ」  「デブ――には――お金――わた――さ――ない!」  「そうはいかんよ」とエルドリッジ。  「だめ!だめ、だめ、だめ!カヤオ大佐にいいつけてやる!あんたにもデブにも思い知らせてやる!二人とも撃たれるわよ!バン、バン、バン!ふん!」  彼女はくるりと振りむくと、パティオを横切り、ドアから玄関口へむかった。正面玄関のドアが不機嫌な銃声のように鳴り響いた。エルドリッジは痛ましい笑みをドウンにむけ、肩をすくめた。  「どうやら、わたしは食べられるようだな――クチャ、クチャ、クチャと――そのあとは銃で撃たれてデザートだ」  「コンチャは誇張しているのさ」  「だろうね。しかしどのくらい誇張しているんだ?カヤオ大佐とは誰だい?」  「ここは軍管区で、彼は責任者だ。まるっきりのアホだよ」  「コンチャの友達か?」  「ああ、今はともかく、昔はそうだった。わたしは、何というか、彼から彼女を手に入れたんだ」  「どんなふうに?」ドウンは興味をそそられた。  「わたしは彼女と結婚した――と、みんなはいっている。あんまり覚えていないんだ。そのとき、へべれけだったから」  「彼女が話していたもう一人のやつは?」  「あれはな」エルドリッジは曖昧にいった。「さっき話そうとしていたんだ。わたしがここを出るとなると、あいつが何だかんだ邪魔しようとするかも知れん。そのとき、君にやつを静めてほしいんだよ。犬の喉をかき切った張本人だ」  「名前は?」  「バウティスタ・ボノフィレ。少なくとも、この前は、そう名乗っていた。今はどういう名前か知らんが」  「わかった。そいつと話しをしてくる。どこにいる?」  「わからない」  「じゃ、人相を教えてくれ」  「それも知らん」  「少し説明してくれると助かるな」  エルドリッジはため息をついた。「最初は二人いた――兄弟だったのだ。バウティスタとルイス・ボノフィレ。カナダ生まれなんだが――半分は何かのインディオの血が混じっている。荒くれ者でね。カナダの刑務所で数回刑期をつとめ、それからこっそり合衆国にしのびこんだ。十以上の州で逮捕されている。ありとあらゆる罪状で。しかし、やつらは短い刑期を二回つとめただけだ。そのほかは執行猶予、仮釈放、仮出獄、起訴取り消し、証拠不十分――」  「裏取引」ドウンがかわりに締めくくった。  「そうだ。バウティスタは裏取引を持ちかける才覚があった。カミソリみたいな切れ者だったが、とうとう連邦政府から不意打ちの摘発を食らって、逃げ出さざるをえなくなった。で、メキシコに来たのさ。ルイスは合衆国に残った。やつはまぬけだった。人を殺すしか能がない。十ドルばかりのために、たばこ屋を襲い、店員を撃ったかどで、わたしが逮捕した」  「で、やつはあんたに裏取引を持ちかけなかったのか?」  「十ドルじゃな。それ以上は払えなかったから、当然、絞首刑だ。たまには誰かを吊し上げなきゃ、仕事を追い出されてしまう」  「そりゃそうだ」  「だからバウティスタはわたしを非難するんだ。ルイスを絞首刑にしたと。わたしがルイスをはめたといっている」  「はめたのか?」  「まあ、そうだな。しかし、どっちにしろ、やつは有罪だった――と、思うよ。そのころ、バウティスタから脅迫状が何通か来たが、わたしは気にしなかった。合衆国に戻ってくる気づかいはなかったし、どうせすぐ忘れるか、殺されると思っていたからだ。ところが、そうはいかなかった。やつは、今、このロス・アルトスにいて、いまだに怒り狂っている。チャンスがありしだい、どうしてやるという内容のメモを送りつけたり、窓に石やナイフを投げたり、犬の首をかき切ったりと、卑劣なことをやりつづけている。さんざん苦しめてから、わたしを片づけるそうだ。わたしをびくびくさせたいのさ」  「もちろん、あんたは屁とも思っちゃいない」  エルドリッジはウイスキーに手を伸ばした。「そう。笑いとばすまでさ」酒瓶の首がグラスの縁に当たってカチカチと鳴った。「やっかいなのは、今、やつが誰なのか、わからんということだ。いやがらせの現場は見たことがない。やつは、このいまいましい町の誰でもありうる。新しい名前を使って、別人になりすます時間は何年もあった。しかも巧妙に変身している。ペロナでさえ見つけることができん」  「ペロナ?」ドウンはおうむ返しにいった。「ペロナ大尉のことか?このこととどういう関係があるんだ?諜報活動か何かをしていると思っていたんだが」  「そうだよ。だからバウティスタ・ボノフィレを探しているんだ。サパタのことは聞いたことがあるか?」  「いいや」  「うむ。パンチョ・ビリャとサパタの関係は、ムッソリーニとヒトラーの関係と同じだった。つまりサパタは大物だった。一時はメキシコ中部全域を支配し――メキシコ・シティも勢力下に置いていた。革命的侵略者で、山賊や追いはぎのたぐいじゃない。彼はインディオだったので、白人を嫌っていた。バウティスタ・ボノフィレはインディオの血が混じっていたから、彼と親しくなった。やつは長いこと、サパタの副官として働いていた。ずっと昔のことだよ。バウティスタは若造じゃない。わたしより年上だ――ずっと上だよ」  「それで?」ドウンがうながした。  「サパタはとうとう殺され、彼の軍隊はちりぢりになった。バウティスタは自分の子分を引きつれ、山賊になった。政府はやつを追い詰め、部下のほとんどを殺し、バウティスタをトレスマリアス諸島に監禁した」  「その島のことは聞いた」  「そうか。数年後、バウティスタは脱獄した。それ以来、捕まっていない。十五年前の話だよ。今じゃ、誰に化けたのかもわからん」  「なぜ政府はそんなにやっきになって、やつを捕らえようとするんだ?ずいぶん手間暇をかけているようだが」  「昔のメキシコ政府は時に非常に堕落していた。軍隊の将校は部下のために補給品を買う権利を持っていた。二十名、三十名の兵士を指揮する連中のなかには、五百人分の補給品――ライフルと弾薬も含めて――を注文する者がいた。誰も注文に抗議しなければ、売り手は取引額の一パーセントをリベートとして差しだしていたのだ」  「昔のメキシコの将軍は、なんであんなに百万長者が多いのだろうと思っていたが」  「ぼろもうけさ」エルドリッジは残念そうにいった。「それはともかく、連中は使わない物品をひたすらためこんだ。サパタは、軍の前哨地や砦などを襲ったとき、何千丁ものライフルと何百万発もの弾薬を手にし、必要な分以外を隠したのだ。バウティスタはその隠し場所を知っている。今、何千丁ものライフルを野放しにしておくのは、時期的にまずい。古いとはいえ、モーゼル銃だ。まだ使えるだろう」  「そうだな」ドウンは考えこみながらいった。「ヒトラーの軍隊はモーゼル銃を使っている。政府がちょいと心配になるのも無理はない。バウティスタはなぜ情報をネタに取引をしない?」  「まさか。やつはそんなことはしない。とにかく汚い男だ。それに、どっちみち政府が応じない。九十回以上、殺人を犯しているからな」  「そりゃいいことを聞いた。するとコンチャのいうことは正しかったわけだな。あんたは、バウティスタの弾よけにわたしを千ドルで雇おうとしていたのだな」  エルドリッジはグラスを落とした。小さなカシャンという音がした。「ドウン!今さらやめるとはいわないだろうな!決めたことじゃないか!君は約束したんだぞ!ここを抜け出すまで、わたしの背中をバウティスタから守ってくれ!」  「そんなことをして何の意味がある?やつは追いかけてくるぞ」  「違う!それができないんだ――ペロナがやつを追っているかぎり。ペロナは頭がいいし、今みたいにこの国が戦争しているときは、あらゆる権力を使い、軍隊を総動員してやつを追い詰めることができる。バウティスタは今いるところに――ここ、ロス・アルトスに――じっと潜伏していなければならないだろう。ここを出てしまえば、わたしは空気のように自由だ」  「そのあと、千ドル払えよ」ドウンは警告するようにいった。  「当然だ。そのつもりだよ」  「無事、国境を渡って、千ドルなかったときは、笑ってすましはしないからな。あんたも笑えない目にあうぞ」  「わかった。必ず払う。なあ、二度と君をだますようなまねはしない、ドウン!」  「二度もだまされてたまるか。コンチャはどうする?」  「ああ、あれか。彼女はここに置いていくよ、もちろん」  「ハリウッドだの、屋内トイレのある家だのと、さんざんいっていたのにか?」  エルドリッジは肩をすくめた。「男が女をどうやってまるめこむか、知っているだろう。でまかせをいっただけさ。あんな低能に何の用がある?バンピイと連絡を取ったら、最高にいかす女をものにできるんだ。コンチャはカヤオ大佐に返すさ」  「思うんだが、カヤオ大佐が、コンチャが戻ってくると知ったら、バウティスタ・ボノフィレよりも面倒な問題が、大佐とのあいだに起きやしないか?」  「さっきもいったが、カヤオはまるっきりのアホだ。ついでに無知でもある」  「だといいがな」ドウンは立ちあがった。「それじゃ、ペロナを探して、あんたと合意に達したことを知らせてくる。そのあとで手はずを――」  タイルが足の下でわずかに動いた。ほんの少し前後に揺れただけだが、彼の膝は奇妙なくらい硬直し、しびれたような感じがした。カーステアズはすばやく身体を起こした。  「地面が揺れてるだけさ。ここじゃ、いつものことだ。この山並みには断層が走っている。深刻なのは来ないよ――地震とか何とかいうほどものは」  タイルが小刻みにカタカタと動いた。カーステアズは怒ったようにドウンに吠えかかった。  「やかましいぞ、とんま。これはオレのせいじゃない」  タイルにさざ波が走った。そうとしかいいようがなかった。あたかも誰かがスプーンでその固い表面をかきまぜたかのように、タイルはひび割れ、砕け、ばらばらになった。ドウンはよろけ、熱く、ひりひりするほこりが鼻をついた。カーステアズは憤慨したようにくさめをした。  長く、不吉な地鳴りが、雷のような、しかしそれよりもっと怖ろしい、背筋の凍る音を響かせ、地面はゆっくりと仮借なく前後に揺れた。ドウンは頭から倒れた。カーステアズはバランスを取ろうと必死にもがいたが、噴水の水がこぼれてすべりやすくなったタイルに足を取られて、勢いよく転倒した。  ほこりは厚いベールとなり、そのなかで物と物が寄り集まり、ぶつかりあい、奇怪なうめき声をあげた。パティオの壁が動き、ドウンの頭上でゆらめいたが、彼が立ちあがるよりも早く、しぶしぶとうしろに戻り、さらにうしろへ傾いて、不可能な角度までのけぞると、急に崩れて地面をたたき、黄色く逆巻くほこりがのろしのように立ちのぼった。倒壊の音はより大きな、まわりの騒音のなかに呑みこまれた。  一秒が空虚な一世紀のように長く続いた。ドウンは立ちあがったが、地面が足もとから消え、再び這いつくばった。カーステアズは狂ったように地面をひっかき、短い、荒々しいうなり声を発しながら、倒れまいとよたよたしていた。地面はぐらつくのをやめると、ゼリーのようにぶるぶると震え、そして静かになった。  ドウンは上体を起こし、パティオを見渡した。エルドリッジは家の壁ぎわの椅子に坐ったままだった。目は飛び出さんばかりに見開かれ、唇はぎこちなくひくついていた。すべてが急に死んだように動きを止めた。  ごくゆっくりと、まるでもう疲れたとでもいうように、地面がもちあがって、またもとに返った。家のなかで柱が苦悶するように悲鳴をあげ、屋根がややたわんだかと思うと、横に滑るように動きはじめた。  ドウンは喉がしめつけられるようだった。「エルドリッジ!気をつけろ!」  エルドリッジは動こうとした。椅子から立ちあがろうともがいた。しかし次の瞬間には、漆喰と瓦とれんがのかけらが硬い滝のように上から降りそそいだ。  ドウンは立って、急いで残骸の山にむかった。エルドリッジは前にかがんだまま押しつぶされていた。ドウンは折れた柱を押し上げて横に放り投げ、また別の一本を引っぱりだした。瓦と分厚い漆喰のかたまりをうしろのほうへ右に左に投げとばし、エルドリッジの頭と肩を露出させたが、それは妙な具合に平べったく、空気が抜けたようになっていて、漆喰の粉にまみれて灰色だった。  ドウンはエルドリッジの脇の下を掘り、背中のほうから抱き起こした。瓦が一枚、屋根から落ち、彼の横の地面にめりこんだ。壁の上の部分が多少ぼろぼろと崩れてきた。ドウンがもう一度ひっぱると、エルドリッジの身体は抜けた。ドウンは壁が外側に倒れ、邪魔なものが何もないパティオの側面へ彼を引っぱっていった。  エルドリッジはぐったりと動かなかったが、短くあえぐように息はしていた。足と下半身はグロテスクなまでにねじ曲がっている。  ドウンは上着のポケットからハンカチを取りだし、噴水に残っていた水にひたした。エルドリッジの顔をおおう漆喰の粉を拭いてやると、口の端から鮮やかな動脈血が細くしたたり落ちているのがわかった。  エルドリッジは目を開けた。「おい、ドウンじゃないか」彼は弱々しく、驚いたようにいった。  「落ちつけ」  「おい、何だ、その目つきは、ドウン。けがなんかしてないぞ。感覚がない――ドウン!」  「落ちつけ。動くな」  「ドウン!足が――ドウン!何だか変だぞ!ぼさっと突っ立っているな!医者を呼べ!」  「医者を呼んでも、どうもならんよ」  「ドウン!まさか――まさか――」  「その通りだ」  エルドリッジの顔は赤黒くなり、喉は頭をもたげようと力を入れるあまり筋が浮き出ていた。  「いやだ!そんなわけには――そんなことは――バンピイ…州知事、州を丸ごと…いやだ!ドウン!嘘をついてるな、ちくしょう!」  「背骨が折れている。内臓もめちゃくちゃだ」  エルドリッジの息は喉のところでごぼごぼと泡になり、はじけた。唇がうしろに引かれて、血まみれの歯がのぞいた。声はしゃがれていたが、彼は非常にはっきりとこういった。  「おまえなんか地獄に堕ちろ」  頭がだらりと一方にころがった。ドウンはそっと立ちあがった。丸めて握りしめていた、濡れたハンカチを見ると、やや不快そうに顔をしかめて捨てた。  背後から声がした。「どうか、そのまま動かないで」  ドウンは動かなかったが、殺気だった目つきでカーステアズを見た。カーステアズは後ろ足のつま先をなめようと、こみいったストレッチ体操の最中だった。足を突飛な格好に四方に広げ、申し訳ないと、ばつの悪そうな表情を浮かべてドウンを見つめかえした。  「脳なし無能のキリンが」とドウンはいった。  「警告しなかったのは犬のせいじゃありませんよ」とうしろの声がいった。「わたしは風下にいましたし、時には音をまったくたてずに動くことができるんです。じっとしていてください」  ドウンは腕も足も身体も頭も動かさなかったが、目だけはさっと左に動かした。そしてカーステアズを見ると、もう一度、左に目を動かした。カーステアズはすぐに立ちあがり、右側にじりじりと進みはじめた。  「やめてください。犬を殺したくはありません。おとなしくするようにいってください」  ドウンは一度、首を縦に振った。カーステアズは坐って彼を見た。  「それじゃだめです」と声がいった。  ドウンはもう一度、首を縦に振った。カーステアズはゆっくり前足をすべらせ、毀れたタイルの上に寝そべった。  「そのほうがずっといい。あなたの犬はすばらしく訓練されていますね。けがさせるのはもったいない。たしか拳銃を持っていたでしょう。使おうなんて思ちゃいけませんよ。両手を身体から離し、ゆっくり回転してください」  ドウンはうしろをむいた。声の主はやせた初老の男で、実に品よく灰色のツイード・スーツを着こなしていた。長い鼻の下に不格好な口ひげがもさもさと生え、レンズの厚い眼鏡が薄く青い目をひずんだ形に見えさせていた。銃は持っておらず、たたんだ緑の傘を小脇に抱えていたが、ドウンはそれがただの傘だと思うほど馬鹿ではなかった。  「お名前は?」  「ドウン。あんたは?」  「レピシックです。あの男から盗みを働くところだったんですか?」  「まだそこまではいってなかった」  「あなたが殺したのですか?」  「いいや。地震が殺したんだ。さっきあっただろう?それとも気づかなかったか?」  「ええ、知っています」レピシックは愛想よくいった。「強烈でしたな。どこから来たんですか?」  「マサラのホテル・アステカだ」  「そこにお泊まりだったんですね?」  「二日ほど」  「ロス・アルトスにはどのようにおいでになりました?交通手段は?」  「観光バスだ」  「誰と来ました?」  「なぜそんなことを訊く?」  レピシックはかすかに傘を動かした。「質問に答えたほうが賢明ですよ」  「わかった。パトリシア・ヴァン・オスデルという女相続人。その女中マリアとジゴロのグレッグ。ヘンショーという男と、その妻および子供。ジャネット・マーチンという学校の教師」  「ありがとう」とレピシックはいった。「心からお礼をいいます。ごきげんよう」  「ああ、ごきげんよう」  レピシックはあとずさりながら離れていった。躊躇することも、足もとを探ることもしなかった。まるで頭のうしろに目がついているかのように、自信たっぷりにうしろへ歩いていった。彼は崩れたパティオの壁を曲がって姿を消した。  ドウンはかがんで漆喰のかたまりを拾いあげると、カーステアズにむかって投げた。カーステアズは敏捷にジャンプして、何事もなく漆喰をやりすごした。  「何のためにおまえを連れているんだ?」ドウンは怒りをこめて訊いた。「これからはちゃんと見張れ」  カーステアズは最初のときより、さらに申し訳なさそうな表情をした。頭を垂れ、こわばった、不安そうな足どりで前後に足踏みをした。  「わかったよ。さあ、来い。ほかに生き残った人間がいるか、町を調べに行くぞ」 第六章  ドウンが道の角で別れを告げてから、ジャネットとペロナ大尉はしばらくじっと立って、彼が革命通りにむかってとぼとぼ歩くのを見送っていた。カーステアズがあちこちさまよいながら先導していった。  「どうしてあんなことをいったの?」とジャネットが訊いた。  「何のことです?」とペロナ大尉。  「どうしてエルドリッジを拷問したり、打ちすえたりするなって、いったの?そんな心配なんか全然ないのに」  「そうは思えませんな」  「ミスタ・ドウンはとってもおだやかで、礼儀正しくて、気持ちのいい人よ。わたしと同じで、拷問なんかしやしないわ」  「とんでもない。いいですか。われわれは彼の記録を持っています。いわゆる私立探偵ですよ。非常に成功しています。彼の記録は暴力だらけだ。事件を解決するためなら手段を選びません。しかし法律を破っても、決して見つからないようにしている。実にずる賢い、幸運なやつです」  「ずる賢いですって!」ジャネットは信じられなさそうにくりかえした。「ミスタ・ドウンが?あら――あら、すっごく話し好きで、あけっぴろげで、ナイーブで、少年みたいなのに――」  「まるで違いますよ」ペロナ大尉は確固たる口調でいった。「それも記録に書いてあります。お人好しのふりをして、人をだますんです…しかし彼はお人好しどころじゃない。間違いありません」  「そんなの、あなたのでっちあげだと思うわ」  「セニョリータ。わたしはでっちあげなどしません」  「じゃあ、勘違いしているんだわ」  「勘違いもしません」  「今まで一度も?」ジャネットは畏怖に満ちた声で訊いた。  「一度も。わたしは――」ペロナ大尉は急に足を止め、眼を細めて彼女を見た。「わたしをからかっているのですか?」  「ええ、そうよ」  ペロナ大尉は大きく息をした。「許してあげましょう、セニョリータ――今回だけは。人をからかったり、あざけるのは、あなたの唾棄すべきお国の習慣のようですからな」  「わたしの何といいました?」ジャネットはむっとしていった。  「合衆国。あそこの国民はたいへん無知で粗暴だと聞いています」  「そんなことないわ!」  「特に女性。甲高い声でわめき、公衆の面前でもどなりちらす」  「そんなことないったら!」  ペロナ大尉は静かに彼女にほほえんだ。数人の通行人が不思議そうに振りかえって彼女を見た。彼女は赤くなりはじめ、手で口をおおった。「ほら、ごらんなさい」とペロナ大尉はいった。「あなたでさえそうでしょう。公衆の面前で大声を出すのは、メキシコでは、とても不作法なことと考えられています」  ジャネットは声を押し殺していった。「わざと怒らせて大声を出させたのね――わたしに恥をかかせるために」  「その通りです。ひっかかりましたね。実に愚かだ」  「わたしを独りにしてちょうだい」  「それはできません」  ジャネットはくるりと向きを変え、やみくもに広場を横切りはじめた。三歩も歩くと、彼女は軽くよろめき、バランスを失って身体が宙を泳いだ。ペロナ大尉の手が彼女の腕を下からつかみ、身体を支えた。  「気分が悪いのですか、セニョリータ?」その声にはもうからかうような調子はなかった。  「ちょ――ちょっとだけ坐らせて…」  「ほら、セニョリータ!こっちですよ。ベンチがある。足を出して、ほら、もう一歩…」  ジャネットは厚い壁をくりぬいてつくった、日陰になったくぼみのなかの、冷たい石のベンチに腰をおろした。目の前の揺らめくような黒いもやが徐々に晴れ、ペロナ大尉の細い、心配そうな顔が見えた。  「何でもないわ」彼女は息を切らしていった。「もう大丈夫。本当に。あ――あの人のことを思い出しただけ。あの死んだ人。今まで人が死ぬのを見たことがなかったから。な――なのに平気なふりをしようとして。でも、血や、顔の表情や、運ばれていくとき地面を引きずった足のことが…」  ペロナ大尉は横に坐った。「同情しますよ。彼のことはもう考えないように。そんな価値のない男ですから。おまけに彼は監視に気づいたとき、わたしの部下を一人殺しているんです。遅かれ早かれ息の根を止めてやるつもりでした。この手で」  「ねえ、ほかのことを話してちょうだい」  「そうですね。じゃあ、ジル・デ・リコの日記のことを話しましょう。もっと詳しく知りたいのです。もう一度、あなたがそれを見つけた場所の名前を教えてください」  「ウィステリア・ヤング・レディース・セミナリー」  「珍しい名前ですな。学校の名称にしては変わっていると思いますがね。所有者は誰です?――州立ですか?」  「ううん。私立よ」  「なるほど。所有者の名前は?」  「ええと――ええと、法人じゃないかしら。つまり誰かの所有物っていうのではなくて、いろいろな人が設立のためにお金を寄付したのよ」  「寄付した人を知っていますか?」  「何人かは」  「その一人はラッグルズというんじゃありませんか?」  「ええ、そうよ!エベニーザー・ラッグルズ。創始者のなかでいちばんの大立て者よ。とっても時代遅れで、規律にやかましくて、保守的なタイプ。大学は女の子に知らなくてもいいことを教えすぎると考えていた人。誰も意見を聞いてくれないから、自分で学校をつくることにしたの。死んでからもう数年経つわね」  「そりゃよかった。彼は泥棒だったんです」  「エベニーザー・ラッグルズが?」  「ええ」  「本当?」  「ええ。母がそう教えてくれました」  「どういうこと?」ジャネットはぽかんとして訊いた。  「母が教えてくれたんですよ。わたしの家族は、母にいわれるまで、この犯罪者ラッグルズに泥棒されたことがわかりませんでした。でも母は知っているんです。合衆国から来る人のことは何でも知っています。彼女自身、合衆国の出身ですから」  「つまりお母様はアメリカ人なのね?」  ペロナ大尉は彼女を見た。「それは、あなたの国の人々の、実に腹立たしい癖ですよ、自分たちのことをアメリカ人と呼ぶのは。アメリカには自分たちしかいないみたいだ。覚えておいてください。メキシコ人はアメリカ人なのですよ。われわれは合衆国の人より、もっとアメリカ人だ。なぜなら彼らより先にアメリカに来ていたんですから」  「ごめんなさい」ジャネットはしゅんとしていった。  「恥を知るべきですよ。これからは言葉づかいに気をつけてください。わたしの先祖エミール・ペロナはこの大陸に来た最初の人間の一人です。だからジル・デ・リコの日記がほしいのです。あれは三百年前に、ジル・デ・リコの一族からわたしの一族に贈呈されたものです。ご覧になりたければ、贈呈の書状を見せてさしあげましょう。もっとも読めないでしょうけどね」  「そんなことない。わたし、読めるわ」  「無理ですよ」ペロナ大尉は教え諭すようにいった。「古いスペイン語で、手書き文字ですから」  「それでも読めるわ。わたしがどうやってジル・デ・リコの日記を読んだと思うの?」  ペロナ大尉は目をむいて彼女を見た。「日記を読んだのですか?本当に?全部?」  「ええ、そうよ」  「信じられん」とペロナ大尉はいったが、その声には敬意がこもっていた。「わたしの一族には一人として読んだ者がいません。難解きわまりないですからね。あんな古い手書き文字を読めるのは大学の教授だけです」  「わたしは教授よ」  「何をいっているんです。あなたは女性じゃないですか」  「わたしは――教授――なの!」  「おかしなことがあるものだ。それじゃあ、あなたが教授で、本当に日記を読んだとしましょう。それなら初代エミール・ペロナについて書かれていることを知っているはずですよね――どこに行ったかとか、何をして、何を見たかとか、みんな」  「ええ、知っているわ」  「じゃ、どうか話してください」  「でも、いっぱいありすぎる!」ジャネットは抗議した。「何日も何日もかかっちゃう!」  「かまいませんよ」  「でも、わたしは時間がないわ!バスで帰るんですもの!」  「わたしも乗っていきましょう」  「それでも時間が足りないわ。ホテル・アステカにはあと二日泊まって、そのあとマサトランに行くのよ」  「わたしも行きます」  「どうして?」  「理由は軍の機密です」  「嘘よ!わたしを追いかけ回そうとしているだけじゃない!」  「いいがかりはやめてください、セニョリータ」ペロナ大尉はきびしい声を出した。「それは非難ですか、わたしが、その――その――あの興味深い単語は何だったかな?そうだ!女たらし!わたしが女たらしだと非難なさっているのですか?」  「そうよ」  「セニョリータ。ようく覚えておいてください。わたしはメキシコ陸軍の士官にして紳士なのです。数多くの重要かつ極秘の任務を帯びているのです。たかが女ごときを追いかけて時間を無駄にすると思いますか?――それがたとえたいへん可愛らしい女性であったとしても」  「えっ?」ジャネットは驚いた。  「ええ、そうですとも。あなたは実に可愛らしい。誰かにそういわれたことはありませんか?合衆国の男は何をしているんです?」  「まあ、わ――わたし――」  「赤くなりましたね。その顔も、とても魅力的だと思いますよ」  ジャネットはごくりとつばを飲んだ。「あの…エベニーザー・ラッグルズが泥棒だっていう話し、もっと聞かせてくださいな。とても信じられないわ」  「ずっと以前、彼はメキシコを旅していました。そしてわたしの祖父と祖母の家に招かれたのです。彼は祖父母の客だった、わかりますね?当時、彼は本を集めていました――古書の蒐集です」  ジャネットはうなずいた。「知ってるわ。蔵書を学校に遺贈したから。厖大なものよ」  「でしょうな。わたしの祖父母は彼に先祖伝来の家宝を見せました。わたしの一族には非常にたくさんあるのですよ。われわれにはたいへん貴重なものです。ラッグルズの悪党はジル・デ・リコの日記を見つけました。彼は心を奪われました。つかんだきり放すことができなくなったのです。もちろん、読めやしませんでしたがね。彼はそれを自分のものにしようと思いました。何度も何度もそれとなく話しを持ちかけ、とうとう祖父に日記をくれと要求したのです」  「それで?」  「祖父はさしあげましょうといいました。それで彼は日記を持っていったのです。泥棒め!」  「でも、どうしてなの?」ジャネットは当惑した。「おじい様が日記をさしあげたのに、どうして彼のことを泥棒呼ばわりするの?」  「ああ!そこがずるいところなんです!われわれは母が説明するまでわかりませんでした。彼女はその話しを聞いてかんかんに怒りました。いいですか、あなたがメキシコで客人として扱われるとき、その家のものは、すべて、あなたものなのです。それがここの習慣なんです。あなたが家のなかに入ると、もてなす側の人間は『この家はあなたのものです』というのです。本気で、ですよ」  「とても美しい習慣だわ」  「そうですとも。不正直な外国人がそれにつけこまなければね。あの泥棒のラッグルズみたいに。彼は金でその本が買えないことを知っていましたが、同時に――彼は客人でしたから――それを寄こせといえば、祖父には断ることができないことも、知っていました。断るのはもてなしの心に反しますから。祖父はたいへん悲しみましたが、日記をラッグルズにさしだすしかなかったのです。祖父はラッグルズも同じ立場に立ったなら、同じことをするだろうと思っていました。母は決してそんなことはないといいます」  「お母様が正しいわ」  「だからラッグルズは泥棒なんです。詐欺師。ペテン師。自分は従いもしないし、信じもしない習慣につけこんだのです。客人の特権を利用して、わたしの一族のものを盗んだ。でも、このかたはつけてやりますよ。わたしは学校に行って、本をだまし取ってやります。買い取るふりをして、偽金か不渡り小切手で支払いをしてやる」  ジャネットはぎょっとして彼を見た。「そんなのいけないわ!」  「やってやりますとも。ペテンにかけるのは得意中の得意なんです。それに合衆国の人間はそういうものにすぐひっかかる、どうしようもなくお目出度い人間だってことを知っています」  「逮捕されるわよ!」  「いいでしょう。合衆国に正義はないと聞いていますが、一族のために日記を取りかえせるなら、喜んで牢屋に入りましょう」  ジャネットは咳払いした。「あ――あの日記、今は学校にないの」  ペロナ大尉はすっと背中を起こした。「何ですと?嘘をついていたのですか?」  「違うわ!わたしはあれを学校で見つけ、学校で読んだといったのよ。学校にあるといったのはミスタ・ドウンよ。わたしはそんなこと、いっていない」  「どこにあるんです?」  「ホテル・アステカのわたしのスーツケースのなか」  「そりゃ好都合!」ペロナ大尉は勝ち誇ったように声高らかに笑った。「わたしに渡してください」  「それはできないわ。学校はわたしが持ち出したことを知らないし。返さなかったら、わたしが盗んだといわれて、牢屋に入れられちゃう」  ペロナ大尉は頭を振った。「さっぱり理解できませんな。まことに奇怪千万ですよ、泥棒からものを盗ったといって、人を牢屋に入れる合衆国のやり方は。泥棒は盗んだものの所有者ではありません。盗品を取りかえし、正当な所有者に戻す。これくらい当然なことはないでしょう。きっと合衆国には泥棒がわんさかといて、正直な人から彼らを守るための法律がずっと議会で可決されてきたんでしょうな」  「学校があなたの本を盗んだわけじゃないわ!」ジャネットはいいかえした。  「もしもそれが――あなたのいうように――エベニーザー・ラッグルズの学校であるなら、学校が盗んだということですよ。彼は学校にかわって盗んだ。結局は同じことです」  彼女はお手上げだという仕草をした。  ペロナ大尉がいった。「日記を持ち歩いて何をしているんです?なぜ学校から盗んだのです?」  「わたしは盗んでない!」  ペロナ大尉は肩をすくめた。「いいでしょう。でも、日記を持ち歩いて何をしているんです?」  「好奇心からなの。日記に書かれている場所に行って、今そこがどんなふうになっているか見てみたかった。日記は案内書のかわりにほしかったのよ」  「その場所というのは?」ペロナ大尉が疑るように訊いた。  「ペロナ中尉が行った場所」  「どうして?」  「見るためよ!」  「どうして?」  「いいかげんにしてよ!あなたに関係ないわ!」  「関係あります」ペロナ大尉は丁寧な口調でいった。「彼はわたしの祖先です。ゆえに関係があるのです。理由をいっていただけますか?」  「教えない!」  「ふむむ」ペロナ大尉は坐ったまま黙って考えこみ、しばらくジャネットを見ていた。「わたしの先祖、ペロナ中尉がおそろしく不道徳な人間だったことは知っていますか?貧しくて、純真で、無力なインディオの若い女を何百人も誘惑したことを?」  「嘘だわ!」ジャネットは憤って、かみつくようにいった。  「はっ!思った通り!あなたはわたしの先祖が行った場所に興味があるんじゃない。彼に個人的に興味を持っているんだ」  ジャネットは立ちあがり、彼をあとにして歩きはじめた。頭を昂然と持ちあげ、ヒールの音も高々と、断固たる足取りで。十五メートルも行ったとき、ペロナ大尉がうしろから声をかけた。  「セニョリータ」  「来ないでよ。ほっといて」  「セニョリータ。わたしは先祖にとてもよく似ているといわれるんですよ」  「それも嘘だわ。彼は紳士だったもの。追い回すのはやめてちょうだい!ついて来ないで!」  「セニョリータ。わたしの日記を返してくれるまで、残念ながら責務として、あなたを逮捕しなければなりません」  ジャネットはぴたりと立ち止まった。「何ですって?」  「本気ですよ」  「できるわけないわ!なぜ逮捕するのよ?」  「わかりません」とペロナ大尉は認めた。「しかし何か理由をつくります」  ジャネットはかっとなり、どもるようにいった。「まあ、あ――あなたって――」  「あたしがかわりに一発、かましてやろうか、お嬢ちゃん?」  ジャネットは驚いてくるりと振りむいた。話しかけてきた女は気味悪くニヤニヤ笑いながら、彼らを見ていた。縮れた白髪が日に焼けた顔のまわりを、いびつな光輪のようにふわりと取りまいている。服はオレンジ色のスモックを着ていた。棒の束を小脇に抱えていたが、ジャネットはそれがたたんだ画架であることを見てとった。  「またあんたか」ペロナ大尉は苦々しくいった。  「そうだよ、坊や。カヤオ大佐にいいつけるぜ、観光客に迷惑をかけているって」  「あの脂ぎったブタなんぞ!」とペロナ大尉がいった。  「今の言葉も伝えといてやるよ。おい、作法を忘れたわけじゃねえだろう。こちらのお嬢ちゃんに紹介してくれ」  ペロナ大尉はぎこちなくいった。「セニョリータ。こちらはアマンダ・トレーシー」  「はっ!やっぱりな。名前も知らねえんだ!何ていうんだい、お嬢ちゃん?」  「ジャネット・マーチン」  「よろしくな、ジャネット。あたしと来るかい?絵の具の染みを一枚売りつけようと思って、カモを探しているんだ。ペロナがちょっかい出したら、ただじゃすませねえ。逮捕するっていうなら、このイーゼルを顔にめりこませてやる」  「軍当局を侮辱する気か?」ペロナ大尉は警告した。「それにわたしはそのお嬢さんを案内してさしあげているのだ」  「そうなのか?」アマンダ・トレーシーがジャネットに訊いた。  「最初はそうだったんだけど」  「わたしは案内を続けますよ」ペロナ大尉はこわばった声でいった。  「牢屋へ?」  ペロナ大尉は咳払いした。「今は行きません。博物館に案内します。非常に美しい場所です、セニョリータ。古い宝物がいっぱいあります」  「行きたいわ。でも、わたしを脅したり――非難するつもりなら――いやよ」  「そんなことしたら、あたしにいいな。この町からたたき出してやる」  「たわけたことを!失礼する」ペロナ大尉はジャネットの腕をぎゅっとつかむと、その場を離れはじめた。  「おい、ペロナ」とアマンダ・トレーシーがいった。「もう一人、見張っておいたほうがいい観光客がいるぜ。チビでデブの、ドウンというやつだ。ありゃ、見たこともない悪者だぜ」  「ミスタ・ドウンは探偵なのよ」とジャネットがいった。  アマンダ・トレーシーはたくましい肩をすくめた。「かも知れねえ。だからといって、悪者じゃないってことにはならねえだろう。見張っといたほうがいいぜ、ペロナ。あいつは一筋縄じゃいかねえ。それにあいつの犬は悪い夢だ」  「見張ってるさ。あんたも絵を描くことに専念して、いらぬおせっかいをしないことだ」  「その言葉、そっくり返すぜ――へっ」とアマンダ・トレーシーはいった。「じゃあな、お嬢ちゃん。あとで会おうぜ」彼女は画架をひきずりながら広場のなかへ歩いていった。  「彼女は画家なんです」ペロナ大尉はジャネットにいった。「ここの住人で、次々と絵を描いているんですが、どれもこれもろくでもないしろものばかりです。ところが観光客は結構な金を払って買っていくのですよ。頭がどうかしていると思いますな」  「わたしもその一人よ」  「セニョリータ。あなたはわたしに侮辱的な言葉を使うようしむけていますね。それが合衆国の女性の習慣であることは知っています。彼らはわざと男に侮辱的なことをいわせ、逮捕されたくなかったら結婚してちょうだいと脅す。魅力がなさすぎて、それ以外の方法では夫を見つけることができないのです。しかしわたしはその手にのりませんよ。あなたと結婚なんて、まっぴらだ」  「まあ、なんて、ご――傲慢で、もののいい方を知らない――」  「心配することはありませんよ」ペロナ大尉は慰めるようにいった。「たぶん、どこかのおバカさんが結婚してくれるでしょうから。行きましょうか」  ジャネットは口がきけなかった。彼女は地面にかかとを突きたて、先に進むまいと抵抗した。しかしペロナ大尉は易々と彼女を引っぱっていった。二人は角を曲がり、うねうねした道に沿って急な山の傾斜面をおりていった。  「ここは旧市街です」とペロナ大尉は説明した。「建物のいくつかは、もちろん、改修されました。しかし非常に古いものも残っています」  このあたりの建築物は屋根が低くて、壁が厚く、窓は細長い裂け目でしかなかった。壁の色も白ではなく、歳月と風雨のためにくすんで、まだらの灰色になっていた。  「ここが博物館です」  それは長い一階建ての建物で、傾斜面に対して横向きにたっていた。正面は大きく見えるように、合衆国西部の店の、にせ正面のような造りになっていたらしいが、今は崩れ落ちて、ぎざぎざのひび割れを残すのみだった。巨大な黒い扉がわずかに開いていた。  古い建物だった。しかし「古い」という言葉は、年経る、うらぶれたその外観を表現するのに充分ではない。朽ち果てた――古色蒼然とした雰囲気には筆舌に尽くしがたいものがあった。それは別の時代の遺物――何世紀もの時の行進から取り残され、今やひとりぼっちの、見捨てられた、孤独な何かだった。  ジャネットは深々と息を吸いこみ、畏れと陶酔のいりまじった目でそれをながめた。ペロナ大尉とのけんかなど、すっかり忘れていた。  「おわかりでしょうが、ここはかつて教会だったのです」彼は静かにいった。「この国でいちばん最初にたてられた教会です。エミール・ペロナ中尉とジル・デ・リコに同行した司祭が、わたしの先祖の兵士や、改宗したインディオの協力をえて、たてたのです。ここでずいぶん長いこと、礼拝が行われていたのですが、百五十年前に地震があって、大きな被害を受けました。正面を見るとわかるでしょう――すっかり崩れているのが。それ以後、ここは安全ではないということで、町の中心に別の大きな教会がつくられたのです」  ジャネットは返事をしなかった。ペロナ大尉は好意的な笑みを小さく浮かべて彼女を見ていた。  「この教会が見てきたもの、耐えてきたものを想像すると、茫然とするしかありません。ここを捨てたとき、人々はまた地震が来ると思っていました。しかし大きな地震は一度もありませんでした。もちろん、大きな地震がもう一度来たら、この古い教会はきっとひとたまりもないでしょう――ぺしゃんこになりますよ。なかに入りましょうか、セニョリータ?」  「ええ」  彼らは階段をあがった。ペロナ大尉が重い扉を開けると、大きな鉄のちょうつがいがキーッときしんだ。小さな入り口の間は空気が薄くて乾燥していた。横窓から射してくる、細い光の筋には、ほこりが踊っている。影は時間と同じくらい古くて忍耐強かった。  「何でしょうか?」静かな声がいった。「何でしょう?ご用ですか?」  その男は二人の前の入り口に立っていた――背が高く、黒い着衣は彼が動くとかすかな衣ずれの音をたてた。その顔は古い象牙のように繊細で柔らかい白さを持っていた。目は切れ長で、目尻がややつりあがり、瞳が黒く光った。  「こちらはティオ・リケス」とペロナ大尉はジャネットにいった。「ずっとこの博物館の管理をしています。こちらのセニョリータは北アメリカの方だよ、ティオ。でも大多数の連中みたいに無教養じゃない。わが国の歴史をよく知っているし、強い関心を持っていらっしゃる」  「わたしの宝物をご覧にいれましょう、セニョリータ」ティオ・リケスがほほえみながらいった。「とても美しいものですよ。こちらへどうぞ」  ジャネットは彼のあとに従い、入り口を通って細長い部屋に入った。天井には古びて煤けた梁がわたされていた。床は石造りで、何世紀ものあいだ、その上を歩いた足がなめらかな小道を形づくっていた。  「まあ!」ジャネットは息もできなかった。  窓は幅の狭い壁龕で、そこから陽の光が明るく射しこんでいた。その黄色い筋は、壁ぎわに並ぶ陳列物にスポットライトのようにあたっていた。古い陳列物はぼろぼろになった過去の残骸ではない。限りなく入念に手入れされ、修復されたものだった。  「お気に召しましたか?」ティオ・リケスが訊いた。  ジャネットは無言でうなずいた。  太陽の光が、つや出ししたコンキスタドールの鎧や、金箔におおわれたダマスク鋼の剣、さらに馬の胸部を守る板金鎧に反射していた。当時、馬はアメリカ全土に十六頭しかいなかったのだ。朝顔のように銃口の開いた火縄銃が、後橋の大きな、赤い皮の鞍の上に斜めに置かれ、人の腕ほどもある二丁の拳銃が、細くてまがまがしい槍の上に、そのいかつい銃身を交差させていた。  ぎざぎざの歯のある、不気味な、原住民の武器もあった。手織りの布は今でもふてぶてしいほど鮮やかな色を保っている。武器の次に並んでいるのは家庭用品だった――コップ、皿、銅鉱をたたいてつくった、いびつなスプーンもあった。もろくなってはいるものの、洗練され、揺るぎない気品をたたえた木製の水甕と壺の数々。そして四百年前、ロス・アルトスの石を砕いたり削ったりするのに使った、扱いにくそうな道具まで置かれていた。  ジャネットはキャンディ・ストアで迷子になった子供のようにさまよい、新たな驚きにぶつかり、それを理解するたびに息を呑んだ。部屋のなかをひとまわりし、もう一度見てまわると、ペロナ大尉の横に来て、手づくりの木のベンチに坐った。  「すばらしいわ」彼女はため息をついた。「これはみんなあなたのものなの、ミスタ・リケス?」  「いいえ」ティオ・リケスはくすくすと笑った。「国のものですよ。あんまり長いこと一緒にいるので、自分のものといっているのです。褒めていただけると、わたしもうれしい。最近の人は、たいがい、古くて美しいものをつまらないと感じますから」  「すばらしいとしかいいようがないわ」とジャネットはくりかえした。「もっと、もっと、見ていたい…地下室も見せていただけます?」  彼女の声はかすかにこだまして、沈黙のなかに消えた。  「失礼。何とおっしゃいました?」ティオ・リケスが訊いた。  「地下室、この下にある」  「地下室なんてありませんよ」とティオ・リケスはいった。  「あら、あるわ」ジャネットはそういって、ペロナ大尉のほうをむいた。「この教会をたてたことは、ジル・デ・リコの日記にみんな書いてあるの。硬い岩をくりぬいて、地下室をつくったのよ。管理者の司祭に残していく備品や種を保存するために」  「ずっと前に埋められたんですよ」とティオ・リケスはいった。  「どうして?どうして埋めたりするの?掘るのはたいへんだったのよ。それにそこに通じる秘密のドアもつくったのよ――釣り合いを取るおもしがつけてあって、回転軸を中心に開くの」  「この教会は何度もたて直されているんです」とティオ・リケスはいった。「そのとき入り口をふさいでしまいました」  「そんなことない。ほら、あそこ。あの横長の石。上のところを押せばいいのよ。やってみせるわ――」  「セニョリータ」とティオ・リケスはいった。「博物館の物品に手を触れることは禁じられています」  「その通りですよ」とペロナ大尉はいった。「そんなことも知らないのですか。さあ、いらっしゃい、セニョリータ。おとぎの国の地下室になんか興味はない。それにここは退屈で息が詰まる」彼は彼女の腕をぐいと引っぱった。  ジャネットは腕を引き離した。「帰らないわよ!ここに坐って、ずっと、ずっと、ずっと、見ているの。だって何年も貯金して、何千キロも旅してきたんだから――」彼女はペロナ大尉をじっと見た。「何?どうしたの?」  ペロナ大尉の顔は蒼白だった。彼は返事をしなかった。  ティオ・リケスがあざ笑うようにいった。「ペロナ大尉は驚いているのさ。今まで一生懸命、わたしを探してきて、ようやく今、どこにいたのかを知ったわけだ――目と鼻の先にいたのだよ。動くな、大尉」  ティオ・リケスは拳銃を持っていた。握りが真珠でできていて、銃身が長い、凝った銀メッキの大型拳銃だった。  ペロナ大尉はゆるい上着の前から手を差し入れた。  「やめろ。そんなことをしても手後れだ、大尉。気づくのが遅すぎた。あるいは行動するのが遅すぎたな。セニョリータばかり見ていたせいだぜ」  「ど――どうなっているの?」  「彼女は事件のことを知らない――おまえのことも」とペロナ大尉がいった。「ただの無害な観光客だ」  「いいや。もはや無害とはいえない。地下室はそこだよ、セニョリータ。見せてやろう。あんたにも、ペロナ大尉にも。さっきあんたがいったように、その石を押してみな。簡単に動く」  ジャネットはつばを飲んだ。「地下室がどうしたのよ?な――何があるの?」  ティオ・リケスはほほえんだ。「銃だよ、セニョリータ。ライフル。大量のね。少し古いが、あんたが思うほど古くもない。合衆国のような先進国家の部隊も、多くは似たような型のスプリングフィールド銃で武装している。ペロナ大尉はそれを探していたのさ。わたしのことも追っていた。昔の相棒を釈放して、わたしの居場所をつきとめようとした。実はやつらはわたしの居場所を知らなかったのだよ、大尉。やつらは自分の所在を知らせる方法は知っていた。わたしが好きなときに連絡がとれるようにね。しかしわたしの正体や隠れ家は知らなかった。わたしはガルシアに連絡して、ここに来させた。ちょっとした計画に使おうと思っていたのだが」  ジャネットがいった。「ガラガラヘビ!あなたなのね――」  「そうさ。我ながらうまい思いつきだと思ったが、どうだった?兵士のいる部屋にヘビを投げ込んで、それから先はどうなるか、わからなかったが、きっと大騒ぎになって、ガルシアに警告を送ることはできると思った。そうなれば、彼の前にも誰の前にも、姿を見せるという危険を冒さなくてすむ」  「あなたは誰?」  「ペロナ大尉がいわなかったか?バウティスタ・ボノフィレ。殺人、武力蜂起、列車強盗、誘拐、ほかにも、今は思い出せないが、いくつかの罪で有罪になっている。それがどういうことかわかるかい――あんたにとって?」  ジャネットは言葉なく頭を振った。  「このまま帰すわけにはいかないということさ、セニョリータ。悪いがね。しかし今の自分になりすますには何年もかかったし、その努力も並大抵じゃなかった。しかもこの役が気に入っているんだ。地下室のドアを開けな。それからペロナ大尉。一歩も動くなよ。どのみち死ぬことはわかっているだろう。しかし腹を撃って長く苦しませてやるよ」  ジャネットはそろそろと、ぎこちなく後じさって、二人から離れ、石壁の涼気が薄いドレスを通して感じられるところまでさがった。一方の腕を伸ばして石を押すと、石はいやいや動いた。そのとき、大地が抗議するように地中深くから低いうなりを発した。  「動くな」ティオ・リケスが鋭く警告した。「たかが小さな地震だ。ここじゃ、しょちゅうある。何のことはない」  大地は波うち、うなりをあげて、それを否定した。床は気味悪く揺れ、ジャネットは崩れ落ちる壁に、黒い、すばやい、ヘビのような割れ目が広がり、下にむかって走るのを見た。ほこりがもうもうと舞いあがって、視界をさえぎり、指を突きたてて彼女の目をつぶそうとした。  轟音にかき消されるように銃がパンとちゃちな音をたて、ペロナ大尉の声が叫んだ。  「ジャネット!走れ!外に出ろ!」  遠くで小さな爆竹がはぜたように、立て続けに何発か銃声が聞こえた。ジャネットはよろめきながら壁を離れた。目の前に天井の梁が一本、ゆっくりと落下し、古木のかけらとなって砕け散った。彼女は方向を失い、弱々しく、かすれた声で悲鳴をあげた。  ペロナ大尉の腕が彼女の腰をかかえると、彼女を百八十度回転させ、ひきずるように前に引っぱった。短く、鋭い、彼のあえぎ声が聞こえた。彼はスペイン語で毒づいていた。  床がたるんだ動物の皮のように広がった。ジャネットは転倒し、ペロナ大尉をよろめかせた。ほこりで息が詰まり、鎧の一部が大きな音とともに光りながら転がっていった。  ペロナ大尉は再び立ちあがったが、足は酔っぱらったようにふらついた。彼の指はジャネットの腕をむずとつかんだ。彼は彼女の身体を押したり、引いたり、肩で突いたりしながら、小さな入り口の間まで来た。  ほこりの幕は薄く、ジャネットはひりひりする目で横の壁を見た。それはゆっくりと、怖ろしいほど内側にたわみつつあった。まるで巨人の手が外から壁を押しているようだった。大きな正面扉は閉ざされ、ペロナ大尉が輪っかのような掛け金を両手でつかみ、うしろに引っぱっていた。  ジャネットはどうしてドアを開け、ここから出ようとしないのだろうと、ぼんやり思った。危険な状況だった。壁はそんなふうに動くべきでも、動くはずもないような動きを見せ、容赦なく、ますます迫ってくる。今やほかの壁も同様だった。  ペロナ大尉の首に筋が浮かびあがり、上着の肩の縫い目が突然裂けた。ドアが動き、彼はうしろに放り出されたが、すぐまたジャネットの腕をつかんだ。二人は外に飛び出し、エスカレーターのように揺れ動く階段を駆けおりた。  ジャネットはうしろを振りかえった。古い教会はよろめき、崩れ、倒れかけていた。大地は最後に上にむかって激しく突きあげた。教会が致命的な一撃をくらってうめき、壮絶な勢いでその場に崩れ落ちると、もはやそこに建物はなく、立ちのぼるほこりが棺衣のようにまわりをおおう、瓦礫の山があるばかりだった。  轟音は鳴りはじめたときと同じように突然鳴りやんだ。静寂は鼓膜を圧するばかりに強烈だった。ジャネットは顔を張り飛ばされたように我に返った。生まれてこのかた、感じたことのないような恐怖が彼女をいきなり襲った。  ペロナ大尉は両手で彼女をつかみ、歯がかちかち鳴るほど強く揺すぶった。顔はほこりに白くまみれ、くいいるように顔をのぞきこんでいる。  「けがは?」彼はどなった。「答えろ!けがはないか?」  「な――ないわ」ジャネットは泣くような声を出したが、すぐに息を整え、自制心を取り戻し、さっそく怒り出した。「やめなさいよ!放して!」  「グラシアス ア ディオス!」ペロナ大尉は神に感謝した。「不安になったんだよ。口をきかないから。ぼけっと目を開けているだけで」  「あれが地震なの?」  ペロナ大尉は充血した、かすむ目で彼女を見た。「あれが――あれが…」彼は深呼吸した。「そうです、セニョリータ。あれが地震というものです」  「偉そうにいわないでよ。わたしははじめてだったんだから!」ジャネットはかつて教会だった瓦礫の山を見、またもや突然恐怖を感じた。「まあ!外に出ていなかったら…」そのとき彼女はふと思い出して、ペロナ大尉の上着の裂けた肩の縫い目を見た。「あなたが外に連れ出してくれなかったら…手をけがしているじゃない!」  ペロナ大尉は顔をしかめて切れた指をなめた。「ドアを引っぱるとき、力を入れすぎた。ひっかかって動かなかったし、だいぶ急いでいたのでね」  「あ――あなたは命の恩人だわ」  「ええ」とペロナ大尉は認めた。「そう。そしてあなたは馬鹿者だ」  「何ですって?」ジャネットは叫んだ。「何ですって?」  「あなたは馬鹿者だといったのです。地下室のあることを、どうして教えてくれなかったのですか?」  「まさか知らないなんて思ってなかったからよ!あなたの先祖がたてたのよ、あの教会は!」  「そうだな」とペロナ大尉は同意した。まつげにもほこりがたまっていた。「それでも、わたしに話すべきでしたよ。そうすればあの悪魔をつかまえることができた」  「そうだったわ」ジャネットは記憶を回復してきた。「あのティオ――バウティスタという人。銃を持っていたわね!」  「ええ。床が動いて、あわてたところを、ぶんなぐってやりました」彼は自分のこぶしをいとわしそうに見つめた。「わたしたちメキシコ人はあなたがたと違って、けんかや暴力を信じていません。しかし銃を抜いて撃つひまがなかった」  「銃声がしたわ」  「ええ。やつが撃ったんです。しかしほこりで目が見えなかった」  ジャネットは教会を見た。「今どこに…」  「あの下敷きになっていればいいのですがね」ペロナ大尉はけわしい顔で答えた。「しかし残念ながら、そううまくはいかないでしょう。切れ者で機敏な男だ。たぶん、秘密の通路を十以上つくっていたはずです。われわれが脱出できたのだから、彼もできたでしょう。地下室のことを話してくれてさえいたら…」  「地下室といっただけで、どうして何もかもわかってしまったの?」  「われわれは長い時間をかけて可能性をしぼってきたのです。バウティスタ・ボノフィレがこの近辺に隠れていると考え、もしそうなら、強奪品の売買が続いてることからみて、この近くにその貯蔵場所があるはずだと思っていました。ガルシアがここに来たとき、われわれは予想が正しかったことを確信したのです。あなたが地下室といったとき、わたしはそここそが貯蔵場所に違いないとピンと来た。そんなそぶりは見せまいとしたのですがね。しかしやつに悟られてしまった。やつはわたしを生きて帰すつもりはなかったんです」  「でもあなたがいなくなったことは、すぐわかるでしょう?」  「ええ。あなたがいなくなったこともね。しかし疑われそうだと判断したら、いちばん重要な盗品を一部移動させ、姿を隠すくらいの時間的余裕はあるでしょう。まあ、その必要はなかったかもしれない。十年以上、ティオの役を演じてきて、ロス・アルトスに根を生やしていましたからね」  気味悪い舞台裏コーラスのように、四方八方からかすかな泣き声と叫び声があがりはじめた。女が長く、悲しげにむせび泣いた。ほこりの雲は高くあがって、かすれてゆき、太陽がそれを通してぞっとするような黄赤色に輝いた。  ペロナ大尉は急に姿勢を正した。「うかつだった!こんなところでぐずぐずしてはいられません、セニョリータ。この建物には歩哨をつけなければならないし、けがした人の手当や盗難を防止しなければならない。わたしは部下を探します。あなたは広場に戻って、待っていてください。もう危険はないと思います」  「わかったわ。急いでいってちょうだい。わたしは大丈夫」  ペロナ大尉は市場にむかって急傾斜の通りを駆けあがっていった。ジャネットは彼が見えなくなるまで見送ると、周囲を見まわした。  彼女は唖然とし、自分の目が信じられなかった。変化というほどの変化はなかったのだ。ずんぐりした家々は先ほどと同じようにたっている。壁に新しい割れ目が生じ、屋根がへこみ、瓦が通りに砕けていたが、思っていたほど大規模な荒廃はなかった。  そこには人間もいた。フライパンのなかのアリのように、小走りに家を出たり入ったりしている――なかでじっとしていることも怖いし、どこかよそへ行くのも怖いのだ。黒の、ゆったりした晴れ着を着た女が、道のまんなかで独り、膝をついて祈っているのが見えた。通りのむこうの家から、パラキートを枝編み細工の鳥かごに入れた男が出てきた。彼は立ち止まって用心深くあたりに目を配り、それから気が狂ったように叫びながら通りを走り出した。鳥かごが揺れ、パラキートが鳴きわめいた。  「セニョリータ!セニョリータ アメリカナ!」  ジャネットは振りむいた。口もとが泥で汚れている、ぼろ服の小さい女の子が、黒い宝石のようにきらきら光る目で彼女を見あげていた。彼女は怯えているのではなかった。こらえきれない興奮に荒い息をしているのだった。  「セニョリータ、ベンガ ウステ!ラ オトゥラ セニョリータ――ラ ツリスタ リカ!ベンガ!」  彼女はジャネットの手を取り、引っぱった。ジャネットはついていった。女の子はいらだたしげな身振りで彼女のそばをはねまわった。最初の角を曲がって、狭い路地に入った。  「アキ!ミラ!」  数人の男女がかたまって路地に立っていた。彼らは女の子の叫び声を聞いて振りむき、道をあけた。  ジャネットが最初に見たのは、ほこりの上に広がっている、金糸のようなブロンドの巻き毛だった。彼女は息を呑んで駆けだし、急に止まった。パトリシア・ヴァン・オスデルが横になって倒れていた。その横顔は白く、おごそかで、貴族的だった。目を閉じ、頬に真っ赤な、ぎざぎざした血のあとがあった。  色あせたセラーペをまとった小男が彼女のそばにひざまずいた。彼は悲しく残念そうな目でジャネットを見あげた。  「このひと――しんだ いる」彼は慎重に英語を話した。はにかむように、すばやく手で仕草をした。「すっかり しんだ いる」  第七章  ドウンは革命通りに出てきた。今や通りはその名にふさわしいありさまだった。たった今、革命を経験した、というか、革命がそこを通りすぎた、というおもむきだった。砕けた瓦が積み重なり、ストーブの煙突が壁に寄りかかって、ねじれた大砲のように、流し目を送っていた。通りをへだてた一軒の家は正面の壁が崩壊し、家族の者が映画のセットを飛びはねるおどけた役者たちのように、なかをひょいひょいと動いていた。大量殺戮でもあったかのような騒々しさだったが、誰もけがをした人はいないらしい。  ドウンの目の前に男の子がいた。道のまんなかに立って、目を閉じ、こぶしをにぎりしめ、口を大きく開けている。大声で泣いているのだが、誰も少しも注意を払わなかった。  ドウンがそばに寄っていった。「やあ、おチビさん。どこをけがした?」  男の子は泣くのをやめ、用心深そうに目を開けた。ドウンを見てから、カーステアズに目を移した。驚き感心したように、口がOの形に丸くなった。彼はもう一度ドウンを見て、愛想笑いを浮かべた。前歯が三本欠けていた。  「じゅせんと ちょだい」  ドウンは十セント銅貨を渡した。男の子は残っている歯のうち、二本を使って、本物かどうかを確認した。  「デン ギュー」  彼は注意深くぼろシャツのポケットに十セント銅貨を入れると、目を閉じ、口を開け、ちょうど中断したところから続きを叫びだした。  ドウンは通りを歩き続けた。家々とその住人らしき人々は、ほとんどが無傷だった。ただ屋根がへこんで、割れたガラスが物騒な光を放ち、開いたドアが疲れ切った酔っぱらいのように壁に寄りかかっていた。女たちは跳びはね、走り、悲鳴をあげ、子供たちはわめいた。男たちは無我夢中で家財道具を通りに運び出し、また家のなかに入っていった。  ドウンは坂道をくだって市場のある広場にむかった。ここはいっそう騒がしくて、いっそう混乱していた。地震は陳列台を揺らして品物をころげ落とし、溝のなかに乱雑な山を築きあげていたのである。店主たち――と、どうみても店主ではない数名の人々――は、腐肉をあさるハシボソガラスのように山の上で争奪戦をくりひろげていた。  ドウンは三メートルほどもある瓦礫の山の上にバルトロメが坐っているのを見つけた。バルトロメは両手で頭をかかえ、力なくうなだれていた。  「けがしたのか?」ドウンは訊いた。  「瀕死の状態です」とバルトロメ。  「そうは見えんぞ。バスはどこだ?」  「下です」バルトロメは下を指さした。  ドウンは驚いて瓦礫の山を見た。「まさか、この下敷きになったのか?」  「そうなのです」悲しみのなかにも威厳をこめてバルトロメはいった。「理不尽きわまりない大惨事」  「ほかの乗客はどこだ?」  「知りません」とバルトロメ。「知ったことではないです。乗客は多すぎるくらいいる――バスは少ないのに、さらに一台減ってしまった。耐えがたいことです」  やせた、疲れた顔の若者が、汚れたカーキ色の制服を着て、広場のむこうから彼らのほうに急ぎ足でやって来た。彼はドウンに話しかけた。  「ディスペンセメ、セニョール、ペロ ドンデ エスタ――」  「スペイン語は話せないよ」とドウンは相手をさえぎった。  「英語は?」と若者はいった。「よかった。わたしはオルテガ中尉。この地区の軍医官です。あなたはバスの一行と来たのですか?」  「そうだよ。地震がこれをぶちまけたとき、バスのなかに人はいたのかい?」  「いいえ。わたしはちょうど広場のむこうにいたのですが、乗客は下敷きになる前にバスを出ていました。さしつかえなかったら、乗客を探してくれませんか?ここに報告に来るようにいってください。保護しますから。けがした人がいたら、あそこの白い建物まで連れてきてください。わたしが手当てします。動けない場合は呼んでください。すぐとりかかってくれますか?」  「わかった」  「失礼…けが人がいるので…」  彼は広場を駆け戻り、途中で、定期市に来た観光客のように、のんびり突っ立って周囲をぽかんと見ている二人の兵士に命令をどなりつけた。兵士たちは飛びあがって気をつけの姿勢をとり、きびきびと走りながら彼のあとに従った。  「ほかの連中はどっちに行った?」  「ノイローゼになりそうです。考えることがいっぱいあって。まぬけな細君と悪魔みたいな子供を連れた大声の男はあっちに行きました。ほかの人は気づきませんでした」  ドウンは広場を横切った。カーステアズは瓦礫と泣き叫ぶ群衆をいとわしそうに避けながら彼を追った。群衆は刻一刻とその数と音量を増していた。ドウンが最初の横道を曲がると、十五メートルほど先の道のまんなかにヘンショー夫妻がいた。  ミセス・ヘンショーは舗道の上に坐りこみ、百姓風のスカートをぽっちゃりした足に巻きつけていた。鼻眼鏡の一方のレンズはひびが入り、残った無疵のレンズの底から、細い眼がぎらりとにらんでいた。  「立てないわ」と彼女はドウンにいった。「麻痺しているの。救急車を呼んで」  「救急車なんてあるかよ」ヘンショーはうんざりしたようにいった。「それにどっちにしろ麻痺なんかしていないじゃないか。ズボンに火のついたウサギみたいにあの店から飛び出したくせに」  「ショックのせいよ。神経中枢がめちゃめちゃにされたの。感じでわかるわ」  「ばかくさい!」  「あなたのせいよ」ミセス・ヘンショーが苦々しく非難した。  「何いってるんだ?おれのせいだと?おれが地震を起こしたとでもいうのか?」  「あなたがここに連れてきたのよ」  「おい、何いってやがる。ここに来たのはおまえのせいだろうが。おまえが教会の募金活動でマウザー・パドルディップのことを聞いて、このアリ塚みたいなところに行こうといいはったんじゃないか。そいつが昔、ここに住んでいただの、ここには豊かな芸術的歴史があるだのとぬかして」  「ムシューよ」ミセス・ヘンショーは訂正した。「ムシュー・プリディリップよ。この町と美しい原始的な環境が彼に霊感を与えたのよ」  「おれにはムカつくだけだぜ。さっきの地震、感じたか、ドウン?」  「ちょっとだけな。モーティマーはどこだ?」  「ハイヨー、シルバー!」モーティマーが甲高く叫んだ。彼は通りのむこうからすべるように飛び出してきた。銀色の拍車を一組、片手に持ち、テントのかわりになりそうな、大きなソンブレロをもう片方の手に持っていた。「おやじ、見ろよ!ぶんどり品だぜ!ほら。もう一山とってくるから、持っていておくれよ。すげえや。ギャングもいたらいいのになあ!」  ヘンショーはお手上げだという顔で拍車とソンブレロを受け取った。「おい、このならず者!これは人様のものだ!」  「ハイヨー、シルバー!」モーティマーは叫んだ。「ゆけぇぇぇー!」彼は再び通りを横切って、壊れた店の入り口に突進した。  とたんにミセス・ヘンショーが立ちあがった。「モーティマー!そこから出なさい!何もさわっちゃいけません!だめよ!モーティマー!」  「くそくらえだ」ヘンショーはうんざりしていった。「おれまで麻痺しそうだ」  ドウンがいった。「気が変わったら、バスが停車していた広場に戻って報告してくれ」  「停車していた?」ヘンショーがおうむ返しにいった。「どういうことだ――していたっていうのは?」  「建物が上に崩れ落ちた」  「冗談じゃねえ」とヘンショー。「どうやってホテル・アステカに帰るんだよ?ラバに乗るのか?」  「あんな不潔なけだもの、わたしは乗りませんからね」ミセス・ヘンショーがかみつくようにいった。「汚らしいったらありゃしない!説得しようとしてもむだよ!わたしは乗りません、ぜったい」  「ほかの乗客を見なかったか?」ドウンは訊いた。  「グレッグのやつがこの先にいたぜ。あのでかい地震のあとは見てないが」  ドウンとカーステアズは歩き続け、うしろでミセス・ヘンショーが金切り声を出した。  「モーティマー!捨てなさい!そんな怖ろしいキャンディ、食べちゃだめ!バイキンがいるわよ!」  ドウンとカーステアズは、パン屋のあととおぼしきところを忙しそうに掘りおこしている一群の人々を避けて迂回しようとした。そのとき声がした。  「ドウン」  グレッグはひび割れた建物の壁に寄りかかっていた。ハンサムな顔は今はやつれ、苦痛のために唇が青くなっている。右腕の肘から上をスカーフでおおい、前腕は左手で胸の前にかかえていた。  「医者がいるところを知っているか?」と彼は訊いた。  「広場にいる。西側の大きい、白い建物だ。手を貸そうか?」  「いらねえ。腕がちょっとな。折れちまった。地震が来たとき、あのいまいましい飼い葉桶に落ちたんだ」  「ミス・ヴァン・オスデルはどこだ?」  「そんなこと誰が気にする?」  「わたしが気にするさ」  「自分で探しな」グレッグは腕をかばって身体を傾けながら通りを戻っていった。  「よう、でぶっちょ!」  アマンダ・トレーシーが画架をひきずりながら、地響きをたてて走ってきた。髪の毛は今まで以上にちりちりに縮れ、目は、なめし革のように堅くてたくましい顔のなかで、ぎらぎらと興奮して光った。  「楽しいダンスだったな、ええ?おい、聞けよ、デブ。これから一財産つくってみせるぜ!」  「どうやって?」  アマンダ・トレーシーは画架の締め具をはずしてカンバスを取り出し、彼の目の前につきつけた。「わかるか?信じられねえだろうが、こいつは家の絵なんだ。どの家もローラーをかけられたみたいに、一方につぶれて見えるだろう?」  「ああ」とドウンは認めた。  「実は絵を描いたとき、この家はつぶれちゃいなかった。けれども今はつぶれている。わかったか?ロス・アルトスの廃墟。この程度の駄作ならたくさんあるんだ。それを災害の土産物として売るのさ!」  「あんたの家がはじめてあったときに見たあの家なら――でもって、あそこに絵を置いているのなら――急いで雨風の当たらないところに移したほうがいい」  「何だと?」アマンダ・トレーシーがたじろいだ。  「屋根がなくなっているんだ」  「どひゃっ!」アマンダ・トレーシーは通りを駆けだし、行く手に立っていた不運な人々を、誰彼かまわず、画架でひっぱたいた。「どいた、どいた!」  誰かがドウンの腹をつついた。下を見ると、口のまわりを泥で汚した女の子の顔があった。黒いじゅず玉のような目が興奮して彼を見つめている。  「セニョール!ラ セニョリータ リカ イ ラ オトゥラ セニョリータ ツリスタ ソン…」  ドウンは首を横に振った。  女の子も首を横に振った。  「ノ アブラ メキシカノ?」  「と思うよ」とドウンはいった。  女の子は指で耳をかいた。次の瞬間、彼女の顔はぱっと明るくなった。「ミラ!」彼女はこぶしで自分の頭をたたいた。「ボーン!」彼女は芝居気たっぷりによろめいて、通りに倒れてみせた。  ドウンは理解した。「どこで?誰が?どっちだ?」  女の子は飛びあがった。「ベンガ ウステ!」  彼らは急な横道をくだり、にわとりがカーステアズから逃げようと半狂乱になって鳴きわめき、駆けまわる小道を抜けた。右に曲がり、左に曲がり、ガラスの割れた窓からミシンを引きずりだそうとしていた家族をけちらした。  「ミラ!」女の子が叫んだ。「アヒ エスタン セニョリータス!」  例の小さな人だかりはいまだに路地を離れず、うしろにさがって、ひそひそと話しをしていた。ドウンはジャネットのほかに、色あせたセラーペをはおった小男が、ぐったりしたパトリシア・ヴァン・オスデルの横で、ほこりにまみれて、ひざまずいているのを見た。  「何があった?」ドウンは息を切らしていった。「けがしたのか?」  小男は悲しそうに頭を振った。  ジャネットが声を詰まらせていった。「死んでいるわ、ミスタ・ドウン。頭を…即死だったと思う」  「見てみよう」ドウンは膝をついた。ブロンドの髪は手でふれるとかすみのようにふわふわした。小さな頭のうしろに深くめりこんだ傷痕があった。「その通りだな」  彼は立ちあがってゆっくり周囲を見た――地面と、路地の両側に立つ建物の壁を。  「彼女を移動させたかい?誰かがここに運んできたのかな?」  「ノー」と小男がいった。「ノー、ここ、ねる」  「どうしてそんなことを訊くの?」ジャネットはぽかんとした。「何の関係があるの?」  「今はありません」とドウンはいった。「大通りに出て、ペロナ大尉を見つけてきてくれませんか?このことはすぐ知らせなければ。彼がいなかったら、バスが停まっていたところのむかいに、大きな白い建物があって、そこにオルテガという中尉がいます。彼に話しをしてください。わたしはここで待っています」  「わかったわ」ジャネットは素直にいった。彼女は振りむくと、走って路地を出た。  ドウンはかがみこんだ。  小男は恥ずかしそうに彼にむかってうなずき、「エス ラティマ」といった。  「たぶんそうだろうな」とドウンは同意した。  はるか遠くで一つの声が切れ目もわからぬ一続きの言葉をどなった。より近くの声がその叫び声をくりかえした。動揺が電荷のように空中に満ち、小男のドウンを見る目がショックに大きく見開かれた。  「どうした?」  小男は必死になって言葉を探した。「プエンテ!」彼は両手の人差し指の先端をくっつけ、その上からドウンを見た。「プエンテ!」  「アーチ」ドウンは推測した。「屋根」それから彼は飛びあがった。「橋か!」  「シ!シ、シ!はし。きえる」  「何?」  「いった しまう。ない」  「地震で橋が落ちたのか?」  小男はうなずいた。「シ。おちる。こわれる」  「うれしくて涙が出るよ」  汚れた顔の女の子が、わいわいがやがやしゃべっている傍観者のあいだを猛然とかきわけてきた。ドウンの前に立つと、彼にむかって両腕を振りまわした。  「どうした、お嬢ちゃん?」とドウンは訊いた。  女の子はパトリシア・ヴァン・オスデルを指さして、指を一本突きたてた。  「ひとつ」ドウンはうなずきながらいった。  女の子は今来た道をさして、二本の指をたてた。  「ふたつ」とドウンはいい、はっとして立ちあがった。「何だと?もう一人いるのか?誰だ?どこ?」  「ベンガ ウステ!」  彼らは路地を駆けた――女の子が先頭になり、すぐうしろをドウンとカーステアズが追い、そのうしろをセラーペをはためかせた小男が走った。角を曲がって、通りを進み、そこをわたって別の路地に入った。  ささやきかわし、のぞきこむ群衆が、地面に膝をつく、太った女のまわりにぎっしり集まっていた。ドウンは太った女の肩越しに、女中のマリアが長々と、その骨ばった身体をほこりだらけの地面に横たえているのを見た。マリアの顔は青ざめてうつろだった。イボは頬にうずくまる黒いクモのようだった。  ドウンは彼女のそばにしゃがみこみ、伸ばされた細腕にふれた。「死んでないぞ!まだ――」  太った女は怒って彼を押しのけた。「ノ!ギダト!」  「何だっていうんだ?」とドウンは訊いた。  「このひと なおす」と小男はいった。  「看護婦なのか?」  「かんごふ?」小男はその言葉をためすように口にした。「ノー」彼は女の子を指さし、それから両手を三十センチほど離した。  「子供」とドウンはいった。「こびと。一寸法師。赤ちゃん!」  「シ。あかちゃん」  「このおばさんは保母さんなのか?」  「ノー。まんなか ママ」  「赤ちゃん。真ん中。ママ。助産婦!」  「シ」  「本業とはちょっと違うが、たぶんわたしより知識はあるだろう」  立派な口ひげを生やし、まるまると太った小男が、湯気のたつヤカンを注意深く前にささげ、急ぎ足にとなりの家から出てきた。どちらの前腕にも清潔なタオルをひっかけている。ヤカンは太った女のそばの、地面の上に置かれた。彼女は布を一枚選び、お湯でしめらせ、そっとマリアの額をふいた。  「ムイ マロ」  「けが わるい」と小男が飜訳した。  ドウンはぼんやりとうなずいた。「そうだな。わたしにもわかる」  太った女が指を鳴らすと、まるまるした男は即座に先の鈍い外科用はさみを差し出した。彼女はマリアのまっすぐな髪を切った。  「シスター」小男はお湯を持ってきた男を指さしていった。  「彼女は彼のシスターか?」とドウンは訊いた。  「ノー。おとこ」  「あの男が彼女のシスター?」  「シ」  「どういうことだい。シスター、シスター…アシスタント!あの男は彼女のアシスタントか!」  「シ。シスタント。そして てにしゅ」  「てにしゅ?」とドウンはくりかえした。「亭主か?」  「シ、シ!」  ドウンはカーステアズにうなずいてみせた。「コツがのみこめてきたぞ。もうすぐスペイン語もぺらぺらだ」  カーステアズは懐疑的な顔をした。  女の子が突然叫んだ。  「ソルダドス!」  オブリアン軍曹が角のところから彼らをのぞき見ていた。彼は振りかえると大声を出した。  「大尉!やつを見つけました!ここです!」  ペロナ大尉とジャネットが路地に入ってきた。そのうしろには二名の兵士がいて、そのうちの一人は軍隊用担架を丸めて肩に担いでいた。  「これはどういうことだ?」ペロナ大尉が訊いた。  「マリアだわ!」ジャネットが叫んだ。「ミス・ヴァン・オスデルの女中よ!彼女――彼女――」  「死んじゃいないよ」とドウンはいった。「目を見るかぎり、頭蓋骨折だな。ヴァン・オスデルと同じ目にあったが、こっちは軽傷だ。すぐオルテガのところに運んで、診てもらったほうがいい」  ペロナ大尉は兵士たちに合図した。彼らは担架を広げて、オブリアン軍曹と太った助産婦とそのアシスタントに手伝ってもらって、マリアをのせた。  「軍曹はここにいてくれ」とペロナ大尉はいった。  二人の兵士は慎重にマリアを路地から運び出した。  ペロナ大尉はドウンを見ていた。「おまえはこれとどういう関わりがあるんだ?」  「何も。むこうで、ヴァン・オスデルのそばにしゃがんで、あんたを待っていたら、この子が――あの子はどこに行った?さっきまでここにいたのに。とにかく、その子が来て、こっちにもう一人負傷者がいるというのさ。それで助けることができるかと思ってやってきた。そこのイグナスに訊いてくれ。ずっと一緒だったんだ」  「エス ベルダド?」  ペロナ大尉は小男を見てたずねた。  「シ、カピタン」  「マリアはあそこにある、あの石でやられたんだ」ドウンは敷れんがよりもやや大きい、とがった石を指さした。「保管しておいたほうがいい」  「なぜだ?」  「まず間違いなく、パトリシア・ヴァン・オスデルをなぐったのと同じ石だからさ」  「何だと?」ペロナ大尉はぎょっとした。  ドウンはうなずいた。「そうさ。ヴァン・オスデルの近くには、彼女にあれだけの一撃を与えるようなものは何もなかった。しかしあの石はきずの形にぴったりだ。もちろんわたしは勘違いしているのかもしれない。しかし、一応、調べておくべきだろう」  「何を考えているのか、わかりやすくいえ」ペロナ大尉は命令した。  「マリアもヴァン・オスデルも事故にあったのじゃない。二人はパトリシアが見つかったあの路地で、誰か第三者と話しをしていたのだと思う。地震が起きたとき、その第三者はあの石を拾い、パトリシアをなぐりつけた。マリアは逃げた。第三者は彼女を追いかけて、この路地で追いつき、同じ石でなぐった。地震の最中は、誰も彼も悲鳴をあげて、狂ったみたいに走り回っていた。注意を払って見るやつなんて、一人もいない。もっとも、探せば目撃者が出て来るかもしれないけど」  「なぜ第三者がいたと思うのだ?」  「パトリシア・ヴァン・オスデルは財布を持っていた――ブリーフケースくらいの、大きな、赤いエナメル革のやつだ。それがなくなっている」  ペロナ大尉がジャネット見ると、彼女はうなずいた。  「たしかにミス・ヴァン・オスデルはそんな財布を持っていたわ。わたしも気がついていた。彼女が見つかった路地にはなかったわ」  ペロナ大尉はもう一度ドウンを見た。「まだ話しておくことがあるか?」  「ああ、もう一つ」  「何だ?」  「エルドリッジのことだ。家の屋根が彼の上に落ちた」  ペロナ大尉は大きく息を吸い込んだ。「けがはなかったろうな?万が一にも、重傷を負ったりしなかっただろうな?」  「それがね」  「思った通りだ!死んだんだな!」  「そうだ」  「そのとき、おまえは何をしていた?きっと無心に空でもながめていたというんだろう」  「地震でひっくり返って、ちょうど立ちあがろうとするところだった」  「何と都合のいい地震だ!」ペロナ大尉は歯をむき出した。「おまえはエルドリッジが合衆国に帰るのを防ぐためにここに来た。そしてまんまと成功した!」  「まあ、そうともいえるな」  「おまえを逮捕する!」  「おいおい」ドウンはおだやかに抗議した。「わたしがエルドリッジの上に屋根を突き落としたわけじゃないぜ」  「大尉」とジャネットがいった。「ミスタ・ドウンは本当のことをいっていると思うわ。とんでもない誤解よ――」  ペロナ大尉は彼女のほうにむきなおった。「あなたも逮捕されたいのか?」  「いいえ」  「では静かにしていたまえ。軍曹!この男を兵舎に連行し、わたしが取り調べを行うまで監禁しろ」  「聞いただろう、デブ公」とオブリアン軍曹がいった。「さっさと行け。妙なまねはするな。この銃剣はきれいに光るから持っているわけじゃないんだ」  「カーステアズも連れていっていいかね?牢屋に入るときは、たいてい、一緒なんだ」  「よし!」  ドウンは指の付け根でカーステアズの額を軽くたたいた。「立っちしな、相棒。ブタ箱に行くぞ」  「お気の毒だわ、ミスタ・ドウン」とジャネットがいった。  「たいしたことじゃありませんよ。すぐ出てきますから。いつもすぐ出てくるんです」  「自信を持ちすぎないほうがいいぞ」ペロナ大尉は険悪な表情で忠告した。 第八章  ドウンはひどく小さな、何もない部屋のなかで、長いベンチの端に腰かけていた。狭い窓が一つあるだけで、粗末な板敷きの床には、地震のときに壁や天井から落ちたほこりが積もっていた。カーステアズは残りのベンチを占領して寝ていた。オブリアン軍曹がドアのすぐ内側に立って、二人をにらむように監視していた。  ペロナ大尉とオルテガ中尉がドアから入ってきた。  「わかったことを話したまえ」ペロナ大尉が命令した。「彼にもわかるように英語で」  オルテガ中尉はいった。「わたしはセニョール・エルドリッジの検死を行いました。衣服と頭髪に漆喰の粉とモルタルのかけらが付着していました。背骨は折れ、腰の下で切断。左腕は骨にひびが入り、肋骨は五本骨折。そのうち一本は肺腔を突き抜け、心臓近くまで達していました。以上の傷が死因であります」  「ドウンがその傷を与えることは可能か?」  オルテガ中尉はドウンを見た。「無理だと思われます」  「もう一度見ろ。やつは見かけでは判断できない」  オルテガ中尉は頭を振った。「人為的な傷であるという証拠がありません。セニョール・エルドリッジは自宅の屋根の崩落により押しつぶされたのだと思います」  「その通りだよ」とドウンはいった。「だいたい、わたしがエルドリッジをまっさきに助けようとするところを見ていた人だっているんだ」  「誰だ?」ペロナ大尉が訊いた。  「レピシックという男だ」  「そんな名前のやつは知らん。メキシコ人か?外国人か?」  「外国人だと思うが」  ペロナ大尉は問いかけるようにオブリアン軍曹を見た。  オブリアン軍曹は首を横に振った。「いいえ。この町にそんな名前のやつは一人もいません――外国人だろうが、なかろうが。全員調べました」  「しかし、わたしは見たんだよ」とドウン。  「ありえない」ペロナ大尉はまるで信用しなかった。「われわれに知られず、正体を隠してこの地域に入ることはできない。また嘘をついているな」  「お願いします」とドアの外で声がいった。「どうか許可してください。ぜひとも大尉にお会いしなければならないのです。非常に大切なことなのです」  オブリアン軍曹は外に飛び出し、レピシックをまえに押しやりながら、すぐ部屋のなかに戻ってきた。レピシックはにっこりほほえみ、おとなしく、あやまるように頭を下げた。  「おじゃまして、たいへん申し訳ありません。しかし自分がロス・アルトスにいることを報告しなければならないと聞いたものですから」  「名前は?」  「レオン・レピシック」  「えへん」とドウンがいった。  ペロナ大尉は皮肉をこめておじぎをした。「これは失礼した。嘘ではありませんでしたな――今回も。セニョール・レピシック、どうやってロス・アルトスに来たのだね?」  「サンタ・ルシアから来ました」  「こいつは頭がどうかしている」とオブリアン軍曹がいった。「そんな途方もない遠足、身体がばらばらになるぞ。こんな老いぼれにできるわけがない」  「しかしながら、わたしはここにいますよ」とレピシックはいった。  「誰が案内した?」  「アドルフォ・モラレスという男とカルメンシタというロバです。確認なさりたいなら申し上げますが、彼らは――いや、少なくともアドルフォは――今、ドス・エルマノスで酩酊しようとしている最中です」  「確認したいね」とペロナ大尉はいった。「必ず確認させてもらうよ。北アメリカの人間かね?」  「いいえ」  「パスポートを見せたまえ」  レピシックはすり切れた革の書類ばさみを取り出し、ペロナ大尉はそれを注意深く調べた。  「アルバニア人か?」彼は目をあげていった。  レピシックはうなずいた。「ええ。しかし、おわかりになるでしょうが、パスポートはイタリアに侵略される前に発行され、アルバニア亡命政権の判も押されています」  「ふむむ」ペロナ大尉はパスポートを返した。「この男を見たことがあるか?」  「ええ、一度だけ」  「どこで?」  「革命通りに面した家の裏のパティオで」  「何をしていた?」  「地震で致命傷を負った男を助けていました」  ドウンはずっと息を詰めていたのだが、今、それをゆっくり、長々と吐き出した。  「男が地震でけがしたと、どうしてわかった?」  「現場を見ていました。家の屋根が落ちるのを見たんです」  「どうして見ることができた?パティオは高い壁で囲われていたぞ」  「地震で壁は崩れていました。それにわたしは家の裏手の丘の上にいたのです」  「そんなところで何をしていた?」  レピシックはほほえんだ。「探検です。たいへん興味深く、有益な暇つぶしですよ」  「ロス・アルトスに来た理由は?」  「探検するためです」  「なるほど」ペロナ大尉はひややかにいった。「ドウン、おまえを釈放する――とりあえずな。アシエンダ・ヌエバ・インクレサに行って、宿泊名簿に記名のうえ――待機していろ。セニョール・レピシック、彼についていって、あなたも同じようにしたまえ」  「わたしはもう記名しました」とレピシック。「ほかのすてきな観光客の方々にもお会いしました」  「ドウン」とペロナ大尉はいった。「出て行く前に、おまえの最近の行動について、いくつか、いっておきたいことがある。おまえはニューヨークに本部を置く、セバーン国際探偵局という組織に雇われているな。この探偵局は、ある州の政治家たちの依頼を受け、おまえをメキシコに送って、セニョール・エルドリッジにわいろを渡そうとした。この国にとどまって、政治家たちに迷惑をかけるのをやめさせるためだ。おまえはそのために一万ドルを受け取ったが、それをメキシコに持ってきていない」  「そうだったか?」  「ああ。かわりに、おまえはそれをD.L.カーステアズ名義でシカゴの信託商業銀行に預金している」  「彼に大学教育を受けさせるための資金だよ」とドウンはカーステアズを指さしていった。  「おまえのユーモアにはヘドが出る」ペロナ大尉はぶっきらぼうにいった。「もともとエルドリッジに金を渡す気はなかったんだ。おまえは金を横領したんだ」  「けしからん男ですな、わたしは」とドウンはいった。「その政治家たちは、きっとわたしを告訴するか、牢屋に入れるか、何か対策を取るだろうね」  ペロナ大尉は黙って彼をにらんだ。  「それがどうかしましたか?」オルテガ中尉が訊いた。「わたしにはわかりませんが」  ペロナ大尉はいった。「やつは政治家たちが起訴しないことを知っている。そんなことをしたら、なぜ彼に金を渡したか、説明しなければならなくなる。彼らが避けようとしている、まさにそのスキャンダルが起きてしまう」  「何じゃ、そりゃ!」オブリアン軍曹が大声を出した。「そのデブ公は一万ドルを手にするってことか?犯罪は割に合わないなんて、とんでもない嘘だな!」  「何かいったか、軍曹?」ペロナ大尉がいった。  「何でもありません、大尉殿」とオブリアン軍曹は答えた。  ペロナ大尉はカーステアズ、ドウン、そしてレピシックを指さした。「出て行け、おまえたち全員」  ドウンはカーステアズを肘でこづいた。「さあ、ついて来い。うまく無罪になったぞ」 第九章  アシエンダ・ヌエバ・インクレサ(新英国大農場)は、農場でもなければ新しくもなく、英国というのも名ばかりだったが、その二メートル近くもある、分厚い日干しれんがの壁は、表面にほんのいくつかひび割れを生じただけで地震をのりきった。広場の西側にたつ、幅の狭い二階建ての建物だった。ドウンとカーステアズとレピシックは横の入り口からなかに入った。そこは天井の低い、薄暗い、かびくさい部屋になっていて、大胆にもレストラン・バーと名づけられていた。  「ミスタ・ドウン!」とジャネットが声をかけた。彼女はワイヤーレッグの丸テーブルの一つに腰かけていた。その上にはギネス・スタウトのけばけばしいポスターがかかっていて、飲み心地のよさをこううたいあげていた。「解放された?そりゃあ、よかった」  「心配することないっていったでしょう」とミセス・ヘンショーがいった。彼女は別のテーブルに坐って、ちびた金色の鉛筆をせっせと動かし、革装の日記をつけていた。「わいろを使って誰かをまるめこむだろうと思っていたわ」  「今回は金を使わずにすんだよ。レピシックのおかげで釈放されたんだ」  「あんなこと、何でもありませんよ」レピシックは謙遜していった。「さっそく失礼して、わたしは部屋で昼寝します。くたくたに疲れていますので」  彼は急な階段をあがって二階に行った。  「ミス・マーチン」とミセス・ヘンショーがいった。「お昼に食べた変な料理、あれは何ていうの?」  「チレス・レエノス」  「つづりは?」  ジャネットはつづりをいった。  グレッグは部屋の隅に一人で坐り、目の前のテーブルに置いてある、背の高いプリマス・ジンの丸瓶を陰鬱にながめていた。ドウンは彼に近づいた。  「そいつを一杯もらえるかな?」  「いいぜ。あんたが金を払うならな。バーのうしろの棚にグラスがある。割って飲むならティンプキンスを呼べ」  「ストレートにしよう」ドウンはグラスを探してきて、グレッグのむかいに坐った。「酔っぱらうまで飲もうぜ」  「よし」  ドウンは帽子をぬいでテーブルに置き、上着のボタンをはずした。グラスにジンを少し注いで味見した。  「上物だ」彼はグラスを干し、もう一杯注いだ。  カーステアズがテーブルに近づき、彼にむかってうなり声を出した。  「おまえは地獄に直行するがいい」とドウンはいった。  カーステアズはまた彼にむかってうなった。  「オレは飲みたいときに飲む。これはオレの腹だからな。誰かに酒瓶で頭をぶったたかれる前にお坐りしろ」  カーステアズはふてくされたように、わざとゴツゴツと音をたてて坐った。一度鼻を鳴らすと、あきらめたように目を閉じた。  「あなたがお酒飲むのをいやがっているの?」ジャネットが訊いた。  「ええ。以前、酔っぱらったときに、やけに感傷的になって、こいつにキスをしてしまったんです。そのときのことを忘れていないんですよ。アルコールのにおいをかぐと、いつもレモンをかじったみたいに顔をしかめる。心が狭いんだな。やつの性格の重大な欠点です」  「ミスタ・ドウン」ミセス・ヘンショーがきびしい声を出した。「ミスタ・グレッグにちょっかいをかけるのはおやめなさい。ミス・ヴァン・オスデルのことを思い出して悲しんでいらっしゃるのだから」  「そうなのか?」とドウンは彼に訊いた。  「いいや」とグレッグ。「去年の夏、ロンドンで出逢った女の名前を思い出しているんだ。そのおやじが接着剤の工場を持っていてな。イギリスに接着剤の工場を持っているやつ、誰か知らないか?」  「さあ。オルテガが腕の手当をしてくれたか?」  「ああ。整復したといっていた。おれとしちゃ、切ってほしかったぜ。痛くてたまらねえ」  「一杯飲めよ」  「よし」  頭の上の廊下から足音がとどろき、ヘンショーが階段の下にむかってどなった。  「おい!ここのバスルームを見たか?」  「ウィルバー」ミセス・ヘンショーがろくに注意もむけずにいった。「旅行中は仕事の話しはなしよ。約束したでしょう」  「こいつは仕事なんかじゃない!」とヘンショーはいった。「いくらなんでもあれじゃひどすぎる!きっと五十年前のタイプだぜ。ここのオーナーはどこだ?ティンプキンス!ティンプキンス!」  バーのむこう端のドアから男が出てきた。やせて、小柄な、ガニ股の男で、エプロンのかわりに汚れた小麦粉の袋を腰に巻いている。生まれてきたことに失望し、いまだにそのショックから立ち直れずにいるような顔をしていた。  「何の用だ?」  「ティンプキンス。おまえのところのバスルームはひどいぞ」  「使えるだろう?」  「そりゃ何とかな。しかしそんなことは問題じゃない、ティンプキンス。ありゃ古すぎる。いや、骨董品だぜ」  「気に入らんなら、使わなくていい」  「使わないで、どうしろというんだ?」ヘンショーはぽかんとしていった。  「そりゃあ、あんたの問題だ。自分で解決しろ」  「やあ」とドウンがいった。「ペロナ大尉がここに泊まれといったんだ。宿泊名簿を出してくれ。名前を書くから」  ティンプキンスは苦々しそうに彼を見た。「あんただな、人を殺してまわっているのは」  「たまにだけどね、そんなことをするのは」とドウン。  「このホテルでは人殺しは御法度だ。覚えておけ。わたしは英国国民だ。自分の権利も知っている。人を殺したら、即座に追い出す。ペロナ大尉が何といおうとだ」  「わかったよ」ドウンはにこやかにいった。  「宿泊名簿はカウンターの下だ。自分で記名しろ――ちゃんと自分の名前を書くんだぞ。上に空いている部屋があったら、使っていい。それと、そのジンの瓶にはしるしがつけてある。二人のうち、どっちかが減った分を払えよ。それから、あんたたち客に大声で呼びつけられるのは迷惑だ。こっちは忙しいんだからな」  ヘンショーが足音をしのばせて階段を降りてきた。「ティンプキンス」彼は猫なで声を出した。「ティンプキンス、これを見てごらんよ」彼はポケットからつやつやしたカラーのパンフレットをさっと取りだした。「ほら、このモデル9―Aの写真を見てごらん。オーキッド色のタイルだよ、ティンプキンス!」  「あぁぁ!」ティンプキンスはうなった。彼は台所に戻り、乱暴にドアをバタンと閉めた。  「手強いお客さんだぞ」ヘンショーはうれしそうにいった。「だが、ああいう手合いは大好きさ。あいつをターゲットにしたセールストークを特別に考えてやろう。モデル9―Aを見てみないか、ドウン?」  「いらんよ」とドウン。  「モーティマーはどこ?」ミセス・ヘンショーが訊いた。  「昼寝している。疲れたとさ」  「小さいのにがんばったわねえ」とミセス・ヘンショー。「あんな目にあっても、ずっと勇敢だったわ」  「勇敢だと?狂喜していたんだろうが。あいつの頭には木びき台なみに常識がない」  「どけ、どけ!」アマンダ・トレーシーがしわがれた声で叫んだ。横の入り口のドアを壁にたたきつけ、身体が隠れるほどのカンバスの山を抱えながら、小刻みに歩いて入り口を抜けた。無造作にカンバスをがらがらと床に放り出すと、その騒音を上回る声を出してこういった。  「よう、ジャネットのお嬢ちゃん。よう、ドウン。ほかのみんなも元気か?ティンプキンスはどこだ?ティンプキンス、あの小汚ねえ泥棒め!表に出てこい!」  ティンプキンスは台所のドアを開けた。「何だ?おや、あんたか。何の用だ?」  「部屋がほしいんだよ、いいやつが。ナンキンムシのいないやつだぜ」  「一つもないよ」とティンプキンス。  「じゃ、見つけたほうがいい。今すぐな。いいか、部屋を見つけるんだぜ。ナンキンムシじゃねえぞ」  「なんで自分の家で寝ないんだ?」  「屋根がないのさ。とっとと探せ、ティンプキンス!急げ!」  「あぁぁ」ティンプキンスはむっつりそういうと、台所に引っこんだ。  アマンダ・トレーシーは陽気にドウンにうなずいてみせた。「やるじゃねえか、でぶっちょ。見かけほどぼんやりでもないんだな。エルドリッジを消した手際は、なかなかのものだったぜ」  「ミスタ・ドウンはそんなことしてないわ」ジャネットが抗議した。「エルドリッジは地震のせいで亡くなったのよ」  「うはは。そんなこと、信じているのかい、お嬢ちゃん。ドウンがやったのさ。あいつは油断ならねえ。唾を吐くみたいに人を殺すんだ。違うか、ドウン?」  「もちろんさ」とドウン。「昼も夜も大量殺人を計画している」  「そうだろ」とアマンダ・トレーシー。「けど、あたしはその間抜け面にだまされねえからな」  「失礼する」とペロナ大尉がいった。  「また来たぜ」グレッグが憂鬱そうにいった。  ペロナ大尉は入り口に立っていた。今度は制服を着ており、背が高く、やせて、有能そうに見えた。彼は部屋のなかをつかつかと歩いて、ドウンのテーブルの脇に立った。  「引き立て役も連れてきやがった」とグレッグ。  オブリアン軍曹が部屋のなかに入ってきた。「聞こえたぞ。くそったれの観光客に皮肉をいわれても、黙っていなければならないのですか、大尉殿?」  「そうだ」とペロナ大尉はいった。「ドウン、急いでいたので、形式的な手続きを一つとばしてしまった。立って両手をあげろ」  ドウンはため息をついて立ちあがった。  オブリアン軍曹はすばやく、慣れた手つきで身体検査をした。「三十八口径コルト式警察用拳銃と――予備の弾丸十五発。武器はこれだけです」  「もう一度調べろ。報告には二つ持っているとあった」  「いいえ。何もありません」  「もう一つはどこに隠した?」ペロナ大尉はひややかに尋ねた。  「どこにも。持っていないよ」  ペロナ大尉はじっと考えるようにカーステアズを見た。「この犬に立つようにいえ」  「立っちしな」  カーステアズはのろのろと大儀そうに起きあがった。  「口を開けさせろ」  「アーン」  カーステアズは肉厚な、赤い舌を出した。  「よろしい」とペロナ大尉。「もう一度坐らせろ」  「ドスーン」  カーステアズはうなりながら、重く鈍い音をたて、床に坐りこんだ。  グレッグがいった。「えらくいかす帽子じゃないか、ドウン。見てもいいか?」彼は腕を伸ばし、けがをしていない手でそれを持ちあげた。帽子の下には大型の折りたたみナイフがあった。「おっと、失礼」とグレッグがいった。  ドウンがうなずいていった。「やってくれるな、相棒」  ペロナ大尉はナイフをすばやく取りあげた。スカウトナイフに似ていたが、それよりも大きくて長い。ペロナ大尉が柄のボタンを押すと、丈夫な広い刃が突然飛び出した。  「たいしたものだ」と彼はいった。「よくできている」  「それはわたしのじゃないよ」とドウンがいった。「ナイフは持ち歩かないんだ。ぞくぞくするんでね」  「じゃあ、どうしておまえの帽子の下にあったんだ?」  「一つ考えられるのは」とドウンはいって、グレッグに疑いの目をむけた。  「おまえが帽子の下に置いたのか?」とペロナ大尉は訊いた。  「いいや」  「本当のことをおっしゃっていないようですね」とレピシックがいった。彼は階段に立っていた。ちょうど天井の下が見えるところまで降りてきていた。「あなたはミスタ・ドウンの帽子の下にそのナイフを置きましたよ」  「嘘つきめ」とグレッグ。  「残念ですが、見てしまいました」レピシックは丁寧に答えた。  「どうなんだ?」とペロナ大尉。  グレッグは左の肩をすくめた。「わかったよ。おれがやった。あんたとあんたの引き立て役がおれたち全員を身体検査すると思ったんだ。それでこれが見つかっちゃ、まずいと思ってな。そいつは今日買ったばかりだ――土産物に」  ペロナ大尉はナイフを手のひらにのせ、天秤のように釣り合いを取った。「ロス・アルトスで買っただと?」  「ああ」  「どこで?」  「呼び売りからさ」  「どんな男だった?」  「変な顔の小男さ。何いってんだよ。おれがいつもそんなものを持ち歩いていると、本気で思っちゃいないだろうな」  「いいや、本気で思っているよ。おまえならやりかねん――いや、事実、持ち歩いているだろう」  「証拠を出せよ」グレッグが挑発した。  「そのうちにな」ペロナ大尉はナイフとドウンの拳銃をポケットに収めた。「ほかにもいろいろなことをまとめて証明してやる。この地区の司令官、カヤオ大佐が、もうじきあなたがた観光客を接見しに来る。大佐が来る前に重要なことを伝えておきたい。全員ここにそろっているか?」  「モーティマーが上で寝ている」とヘンショーがいった。  「わたしのかわいい息子を起こしたらただじゃすまないわよ!」ミセス・ヘンショーが警告した。  「そんなことは思ってもいない」とペロナ大尉。「永遠に眠り続けてくれたら、どんなにありがたいことか。さて、注意して聞いてくれ。パトリシア・ヴァン・オスデルが地震の最中に殺されたことは、みんな、知っているだろう。ドウンが彼女の死を事故ではないと考えたことも知っているだろう。ドウン、もう一度訊く。わずかな手がかりから、なぜそんなにすばやく判断ができたのだ?」  「わたしの頭は犯罪のことしか考えていない。坐ってその頭を休めてもいいか?」  「よろしい」  「一杯やってもかまわないかね?」  「いいだろう」  「おれにも一杯くれ」グレッグが頼んだ。  ドウンは彼を見た。  「おい、ナイフのことはあやまる。水に流してくれ。よくあることさ」  「よくあることが、いつか命取りになるぞ」ドウンはジンを注ぎながらいった。  「落ちついたかね?」ペロナ大尉が訊いた。「わたしの話しに注意をむけてもらえるかね?」  「続けてくれ」とドウン。  「そりゃ、ありがとう。調査の結果、おまえの疑いが正しいことが判明した。パトリシア・ヴァン・オスデルは事故で死んだのではない。とがった石のかけらで頭をなぐられ、殺されたのだ。その石は、あとで、路地裏に倒れていた女中マリアのそばで発見された。彼女も同じ石でなぐられ、重傷を負ったのだ」  「マリアのけがは?」  「それもドウンの診断が正しかった。頭蓋骨折。意識はなく、この状態が数日続くようだ。今、警護つきで陸軍病院に入院している。あなたがたの誰も見舞いに行ってはならない。彼女の意識が戻りしだい、パトリシア・ヴァン・オスデルを殺害し、彼女を襲った人間がわかるはずだ。しかし、わたしはその前に犯人を割り出すつもりだがな」  「どうして急ぐんだ?」とドウンは訊いた。「時間はたっぷりあるじゃないか」  「パトリシア・ヴァン・オスデルはあなたがたの国の大金持ちで、影響力を持つ市民だ。あなたがたの国とわが国は、この戦争では同盟関係。その関係に水を差すようなことは一切避けなければならない。ここでパトリシア・ヴァン・オスデルが殺されたことがわかれば、必然的に、訪問者や観光客を守るわれわれの能力に疑いをもたれ、彼女の死の状況を調べろと要求されたり、第五部隊の行動について軍事地域内にいろいろなうわさがたつに違いない。わかるかね?」  「いいや、まだわからん」とドウンがいった。  「では続けよう。パトリシア・ヴァン・オスデルの死は、殺人者を見つけて逮捕し、メキシコ軍とメキシコ政府がこの事件に一切の責任がなく、注意義務を怠っていないことが証明できるまで、事故として扱われる」  「なるほど」とドウン。「具合の悪い話しを封じこめる魂胆かい」  「そうだ。あなたがたの誰一人としてロス・アルトスの外部と通信することはできない。すべての出入り口は兵士が監視している。電話線と電信線は橋もろともみんな落下した」  「たいした橋だよ」とヘンショーがいった。「ちょっと揺れただけでこのざまだ」  ペロナ大尉は眼を細めて彼を見た。「たしかわりと最近、合衆国の橋が――それも新しい橋が――強風にあおられて崩壊したことがあったな」  「ああ」やりこめられたヘンショーがいった。「そうだったな。あんたのいう通りだ…で、おれたちにどうしろっていうんだ?」  「ここで待機してもらう。橋の両端にある橋脚は無事に残っている。道具が届きしだい、ケーブルを渡す。今、軍用無線を使ってナシオ将軍と連絡を取っているところだ」  「そいつは誰だ?」ヘンショーが訊いた。  「ここに来るなと、あなたがたに警告した人物だ」  「おお、そうだった」とヘンショー。「たしかに警告していたな。しかも正しい警告だったぜ!」  「そうだ」とペロナ大尉は同意した。「あなたがたがここにいても、事態を無用にややこしくするだけだ。しかし、関係者の名前を教えてくれれば、あなたがたが安全であることを通知してあげよう。何日か、ここで足止めをくうことになるかもしれないが、食料と備品に不自由することはない。さて、あなたがたに尋ねたいことがある。パトリシア・ヴァン・オスデルが、この時期、なぜあれほどロス・アルトスに来ることにこだわったのか、知っている人はいないか?」  誰からも答えはなかった。  「おまえはどうだ?」ペロナ大尉はグレッグを指さした。  「知らん。ビジネス関係のことは何も知らん。社交的な付き合いしかなかった」  ペロナ大尉はドウンを指さした。「おまえは?」  「おい、おい、ちょっと待った」ドウンは抗議した。「どっちかにしてくれないか。エルドリッジとヴァン・オスデルは八百メートル離れていたんだ。両方を殺すことはできない」  ペロナ大尉は指を折って数えた。「ガルシア。エルドリッジ。パトリシア・ヴァン・オスデル。マリア。射殺、いわゆる事故死、殺人、殺人未遂。全部、おまえがロス・アルトスに来てから起こった」  「地震もいれておいてくれよ。グレッグのナイフと一緒に、それも帽子のなかに隠していたんだ」  「ペロナ大尉」とジャネットがいった。「ミスタ・ドウンを疑うなんて、ばかげているわ」  ペロナ大尉は振りかえって、彼女を見た。「今日の午後、逮捕されたいかと訊いたとき、あなたはノーと答えた。気が変わったのかね?」  「いいえ」とジャネット。  「関係ないことに首を突っこまないことだ」  「その不細工なツラをひっぱたいてやれ、お嬢ちゃん」アマンダ・トレーシーがけしかけた。「すねをけっとばすんだ」  「あんたはここで何をしている?」ペロナ大尉は訊いた。「迷惑をかける以外に?」  「泊まっているんだよ、気取り屋め。屋根がなくなったからな。ありがたいことに、崩れてきたとき、ドウンが近くにいなかったので、突き飛ばされて下敷きにならないですんだ。残りの人間が皆殺しにされる前に、やつをパクれよ、ペロナ」  「余計なことに口出しをするな」  「そうかい」とアマンダ・トレーシー。「じゃあ、地震について教えてくれ。余計なことをいうのは、やめてやる」  「軍隊は目下、あらゆる手を尽くして救助活動を展開している。財産の保護、危険な建物からの人々の移動、けが人その他の手当。現在、混乱は起きていないし、今後も起きることはないだろう」  「つまんねえな」とアマンダ・トレーシーがいった。「何人死んだんだ?」  「九名だ。セニョリータ・ヴァン・オスデルとセニョール・エルドリッジをいれて」  「けが人は?」  「重傷十七名。これにはマリアも含まれる。彼らは仮設病院に入れられ、オルテガ中尉、従軍看護婦、および看護人が処置に当たっている。ほかにも負傷者は三十四名いるが、重傷ではなく、応急手当で充分だった。全壊した建物は五つだけ。多くの建物が大きな被害を受けたが、まだ詳細は不明だ。地震の地域はきわめて限定されている。マサラもサンタ・ルシアも微震だった。このくらいの情報で満足かね?」  「おっし」とアマンダ・トレーシー。  ドウンが何気なく訊いた。「目撃者は?マリアとヴァン・オスデルに何が起きたか、見た者はいないのか?」  「まだ見つかっていない。知っての通り、地震が来たとき、大混乱が生じた。みんな自分のことと、自分の安全しか考えることができず、まわりで何が起きているかとか、他人のことは考える余裕がなかった。現在も調査中だ」  「わからねえなあ」とヘンショーがいった。「ごちゃごちゃ議論しなくたって、パトリシア・ヴァン・オスデルが死んで、マリアが襲われたいきさつくらい、簡単に想像がつくじゃないか。ここの住民は彼女のめかしこんだ姿を見ている。そのうちの一人が彼女をぶん殴り、ついでにマリアもやっちまった――そして金目のものを取って逃げたんだ。おれにいわせりゃ、この町は、実際、泥棒だらけだぜ」  「泥棒といえば」とペロナ大尉がいった。「おまえにいうべきことがある。今日の午後、おまえが盗んだ品物に対して、即座に現金を支払わなければ、おまえは逮捕され、軍法会議にかけられる」  「何だと?」ヘンショーが憤慨した。「おれが盗んだ品物?」  「六名の人間がおまえを目撃し、確認している」  ヘンショーは額をぴしゃりとたたいた。「あのモーティマーのくそガキ!だから、あんなガラクタなんぞに手を出すなといったんだ!おい、大尉。盗んだのはガキだ。おれじゃない」  「おまえはあの子の責任者だ」  「とんでもねえ!あんたがヒトラーに責任がないように、おれもモーティマーに責任はない!」  「払うのか?それとも牢屋に行くか?」  「モーティマーをぶちこんでくれ」ヘンショーは懇願した。  「ウィルバー!」ミセス・ヘンショーが叫んだ。  「百五十ドルだ」ペロナ大尉が冷静にいった。  「なに!」ヘンショーはうめいた。「ちょっと待ってくれ。取ったのはたかが古い拍車と帽子だ。なあ、モーティマーに返させるよ」  「店主は返品を望んではいない。店の修理に金をほしがっている。しかも、この場合、店主の言い分が優先される。ついでにいうが、今、牢屋はこんでいて、居心地はよくないぞ。さらに軍法によれば、略奪に対する刑は死刑だ」  ヘンショーが目をむいた。「死刑――だと?」  「そうだ」  「ちくしょう!」とヘンショー。「ちくしょう――ちくしょう――ちくしょう!」彼はトラベラーズチェックと万年筆を取り出した。「百五十…ほら!持っていけ!くそ、あのモーティマー!今に見てろ!」  「ウィルバー」とミセス・ヘンショーはいった。「あの子には指一本ふれさせないわよ。あなたのせいなんだから。あなたがそそのかしたのよ」  「そ…そそのかした…とんでもねえぜ!そんなことするものか!あの野郎、手足を引きちぎってやる。あの細い首をねじ切ってやる!」  「いいかげんにしろ」ペロナ大尉はトラベラーズチェックを丁寧に折りたたみながらいった。「もう一つ、大切な話しがある。ガルシアを相手に大立ち回りを演じたり、こんなところに兵士を駐留させたり、あなたがたに来ないよう警告したのは、バウティスタ・ボノフィレという犯罪者が変装して、ロス・アルトスに隠れていると思われたからだ。やつはティオ・リケスと同一人物であることがわかった」  「おいおい」アマンダ・トレーシーが愕然として思わず口をはさんだ。「博物館を管理していた、あのくそ面白くもねえ野郎か?」  「ああ、その、くそ面白くもない野郎だよ」とペロナ大尉は苦々しい口調で認めた。「あの仕事についてもう何年にもなるが、ずっとみんなをだましていたのだ。実はひょんな偶然から正体がわかった」  「まあ、わたしのおかげなのに、ひょんな偶然だなんて」ジャネットがいった。  「たいへん魅力的な偶然でした」ペロナ大尉は彼女のほうにお辞儀をしながら訂正した。「この男はいまだにロス・アルトスを逃げ回っている。彼は――もちろんあなたがたも――町を出ることはできない。捕まるのは時間の問題だが、しばらくはこのホテルから出ないように。この男は破れかぶれになっていて、非常に危険だ」  「公共の敵だな」とヘンショーがいった。「まだ、そういうやつにはお目にかかったことがない。捕まえたら、連れてきて見せてくれ」  「生きて捕まるとは思えんな」  「博物館の地下室には何があったの?」  「全部を調べてたわけではないが、彼がいった通り、ライフルやそのほか大量の略奪品が見つかった」  「あいつ、どこからそんなものを盗んだんだ?」アマンダ・トレーシーが訊いた。  「それは軍の機密だ」とペロナ大尉。  ドウンはあくびをした。「サパタって紳士と飛び回っているときに、手に入れたのさ」  ペロナ大尉はその場でくるりと振りむいた。「どうしてそんなことを知っている?」  「エルドリッジが教えてくれたんだ」  「ほかに何をしゃべっていた?」  「何も」ドウンは警戒するように答えた。  ペロナ大尉はテーブル越しに身をのりだした。「ティオ・リケスがバウティスタ・ボノフィレであることを知っていながら――あるいは疑いを抱いていただけにしろ――それを軍当局に通報しなかったとしたら、おまえは非常にまずい立場に立たされるぞ。恐ろしくまずい立場にな」  「ああ、どうしてオレはでかい口を閉じていられないのかな」ドウンはため息をついた。「そんなことは知らなかったさ。エルドリッジもだ。信用してくれ」  「ア・ロウ」野太い、ぜいぜいとあえぐような声がいった。とてつもなく太った男が、腹回りだけははち切れそうにきついが、ほかの部分はだぶだぶの、しわだらけの制服を着て、ころがるように入り口を通り抜けると、青みがかった肉襞のあいだからのぞく、黄色っぽい、充血した、ビー玉のような目で、生気なく彼らを見つめた。  ペロナ大尉は直立して敬礼した。「カヤオ大佐殿である。見ればすぐわかるように、薄汚い、愚鈍なブタである。ご自分では英語を解し、あやつれるとお考えだが、実はからきしできない。にもかかわらず、あなたがたにスペイン語で話しかけられると、お気を悪くされる。英語で話しかけたまえ。馬鹿者らしくにたりと笑い、理解したふりをなさるだろう。そうではありませんか、大佐殿」  「イエッズ」カヤオ大佐は誇らしげに、ニヤニヤ笑いを浮かべた。「ア・ロウ。グム・バイ」  ペロナ大尉は恭敬の態度をくずさずにいった。「大佐殿はメキシコ陸軍の鼻つまみ、もはや過去の遺物と化した人物である。やや酩酊していらっしゃるが、床に倒れたり、嘔吐したり、泥酔の域に達したブタがよく見せる狂態を演じるほどではないだろう」  コンチャが爆風のようにドアから飛びこんできた。短いスカートが渦を巻き、美しい見事な瞳が火花を散らした。  「聞いたわよ!一言残らず、聞いた!大佐にいいつけてやる!」  「やめたほうがいいぞ」ペロナ大佐が平然としていった。「おまえの――安全のためにも。皆さんに紹介しよう。この女は自称セニョーラ・エルドリッジ」  「本物の妻よ!」コンチャはいきどおって、金切り声を出した。「証明する書類もある!」  「きっと偽造書類だろう」とペロナ大尉。  「もちろんよ!完璧に似せた本物よ!」コンチャは大佐の腕をぐいと引っぱった。「あそこ!あいつ!背の低いデブと、おっきなバカ犬!あいつが夫、殺した!」  「グム・バイ」カヤオ大佐は役に立つことをいおうとした。  「本当よ!捕まえて!牢屋に入れて!撃って!」  「バンバン」とドウンがいった。  「どなるのはやめたまえ」ペロナ大尉がコンチャにいった。「どうしてドウンがおまえの夫を殺したと思うのだ?」  「思う?思う、じゃない!この目で見た!夫にむかって、メキシコの土に、埋めてやるっていうのを見た!それから地震!ガランガランドスンドスン!すぐ、デブが夫に飛びかかって、なぐって、けって、頭ぶって、首しめて、おっきい犬がかみついた!」  「失礼ですが、本当はそんなもの、見ていらっしゃらないですよね」とレピシックがいった。  コンチャは彼をねめつけた。「やせの大嘘つき!」  「嘘なんかついていませんよ。地震の直前に家を出て、市場のある広場にむかって革命通りを歩いていたじゃないですか。とてもお美しいので、特に目についたのですよ」  「えっ?」コンチャは驚いた。  「美しいといったのですよ。とても。それにフォトジェニックでもある」  「それ、どういう意味?」コンチャが疑わしげに訊いた。  「写真うつりがいいという意味です。目鼻立ちがすばらしく整っていて、それに――こんなことをいうのを許してくださいね――プロポーションも抜群だ。映画に出たら、大成功しますよ」  「どうしてそんなことをいうの?」  レピシックはあやまるようにほほえんだ。「わたしは映画監督なんです」  「えっ!あなたが!どこで働いているの?」  「今は一時的にどこにも所属していないんですけど、お望みならオーディションを受けさせてあげますよ」  コンチャの目がぎらっと光った。「とっても、お望みよ!」  「セニョーラ・エルドリッジ」とペロナ大尉。「あなたはドウンがご主人を殺すのを見たのかね?」  「あたい?いいえ。あたいは通りを美しく歩いていた。そのやせた人に見られながら」  「じゃ、嘘をいったのだな」  「もちろんよ。あのデブ、きらい。あいつが来て、夫を殺すまで、問題なかった」  「出て行け」ペロナ大尉は歯をむいた。「二度と来るな!」  コンチャは両手の親指を耳に当て、指をひらひらさせた。「ふんっ!おこりんぼ!」彼女は舌を突き出し、顔をしかめて見せた。  ペロナ大尉が足を一歩踏み出そうとすると、彼女はくるりとむきを変え、優雅に走って外に出た。  「グム・バイ」カヤオ大佐は静かにいった。  「たまにはその場にぴったりの台詞を口になさいますな、よだれをたらしたロバさん」ペロナ大尉は落ち着きはらっていった。「われわれはこれで失礼する。観光客の方々は、わたしの忠告を忘れず、それに従って行動するように。またすぐに連絡する」  「そんなにすぐ来られちゃたまらんぜ」とグレッグがいった。  ペロナ大尉は彼を無視した。彼とオブリアン軍曹はうやうやしくカヤオ大佐に付き添って外に出た。  「また駄作を取ってくるぜ」とアマンダ・トレーシーがいった。「じゃ、おまえら、またあとでな」  「わたしも失礼して昼寝を続けます」とレピシック。  彼が階段をあがると、ヘンショーがこっそりと、何かを企んでいるかのように、そのあとを追った。  「ウィルバー。どこへ行くの?」ミセス・ヘンショーが訊いた。  ヘンショーは答えなかった。  「ウィルバー!」ミセス・ヘンショーはどなった。「モーティマーの部屋に忍びこんで、襲いかかろうなんて考えちゃだめよ!ウィルバー!」彼女は立ちあがって、階段を駆けあがり、ヘンショーを追った。  「もう充分に酔ったぜ」とグレッグがいった。「ちっと手元が不如意でな。ジンの代金はおまえに払わせてやるよ」  「そりゃ、ありがとう」とドウン。「君は親切だな」彼はグレッグが二階に行ってしまうまで待って、ジャネットにうなずきかけた。「バッグを持っていますか?」  「ええ」ジャネットはとなりの椅子からバッグを取りあげた。「ほら」  「見てもいいですか?投げてください」  彼女はバッグを投げた。にせ革でできた大きなもので、ドウンが口を開けてなかを探るのを、ジャネットはびっくりして見ていた。彼はとうとうタバコの箱の大きさくらいの二十五口径自動拳銃を見つけた。  「あなたはスリにとっていいカモですよ」  「あ――あなたが入れたの?」  ドウンはうなずいた。「ええ、ここで歓迎委員会から、さっきみたいな身体検査を受けるんじゃないかと思ったんです」彼はもう一度バッグのなかをごそごそやって、予備の弾倉を見つけた。  「ミスタ・ドウン。ペロナ大尉に嘘をついたのね。やっぱり、もう一丁、武器を持っていたんじゃない。大尉に要求されたとき、差し出すべきだったわ」  「こんなもの、あいつには必要ないですよ。銃はたくさん持っているんだから」ドウンは自動拳銃と予備の弾倉を上着のポケットに入れた。目立つほどのふくらみにはならなかった。「一杯やりますか?」  「お酒は飲まないの」  「それは残念」ドウンは飲みながらいった。  カーステアズがうなった。  「ミスタ・ドウン。彼が正しいと思うわ。みんながあなたのことを殺――いっぱい疑っているのよ。酔ってもうろうとしている場合じゃないわ」  「もうろうとするほどの頭なんか持ってやしません」彼は身体をかがめて、カーステアズに息を吹きかけた。  カーステアズは殉教者のような目つきで彼を見ると、立ちあがってジャネットのほうに移動した。彼女のそばに坐り、その膝の上に頭をのせた。  「いくじなしめ」彼は人差し指を振りまわして拍子を取り、がらがら声で歌いはじめた。「おお 今日こそは アイルランドの 輝かしき日」  カーステアズはうんざりして独り言のようなうなりを発した。  「もっとうまく歌えるなら、聴かせてくれ。ジャネット、プリディリップという画家を聞いたことがあるかい?」  「ええ。絵のことはあまり詳しくないけど、その画家なら本で読んだことがあるわ。モダニストっていうのかな、ヴァン・ゴッホみたいな」  「もう死んでいるんだね?」  「ええ、もちろん。たしか一九一一年に亡くなっているわ。このロス・アルトスに住んでいたのよ。この町が有名になったのは、一つには、彼が絵に描いたからだわ」  「そうか。彼の絵は価値があるのかね?」  「金銭的に?ええ、そうね。少し前だけど、ニューヨークのオークションで一枚が九千ドルで売れたって新聞に出ていたわ。それも特にいい絵じゃなかったんだけど。最高の傑作群は、死ぬ前にここで描かれたのよ」  「ほほう」ドウンはもう一杯あおった。  「ミスタ・ドウン。本当に気分は大丈夫?」  「ごきげんだよ」  「わたし、お酒の経験があまりないの。じっと坐ったまま、酔っぱらうまで飲む人なんて、見たことないわ」  「じゃあ、見せてあげるよ、お嬢ちゃん」とドウンはいった。「見せてあげるよ」 第十章  ジャネットは目を覚ました。冷たい手に喉もとをつかまれるような恐怖を感じ、背中をピンと伸ばしてベッドの上に跳ね起きたのだった。十億年とも思える時間のあいだ、彼女の感覚は幾重にも重なる眠りと疲労のしびれるような層から身をふりほどこうともがいていた。  彼女は自分がどこにいるのか、思い出せなかった。がらんとした部屋は巨大で、実体がないように思えた。反対側の壁の深い壁龕につくられた窓は、重いまぶたの奥からのぞく目のように見え、高くてみにくいベットの頭部は、静かに威嚇するように彼女の上にぬっとそびえたっていた。  そのとき、もう一度、叫び声があがった。喉を絞めつけられたような、なかばおし殺された声だったが、そこにこめられたむき出しの恐怖は、電気のようなショックを与えた。ジャネットは毛布をはね飛ばし、とっさにベッドのふちに移動して、どこかへ、いや、どこでもいいから逃げる用意をした。  寝室のドアががんがんと立て続けに打ち鳴らされ、ペロナ大尉の鋭い声が聞こえた。  「開けろ!いますぐ!」  ドアがまたがんがんとたたかれ、ちょうつがいがはじけ飛びそうになった。  「待って!今行く!」  彼女は椅子にぶつかり、手探りで鉄の錠前のつまみを探した。大きな鍵を回すと、かちりと音がした。とたんにドアが勢いよく内側に押し開かれ、彼女は部屋の隅にはじき飛ばされた。次の瞬間、ペロナ大尉の指が、金属製の鉤のように彼女の腕をつかんだ。  「ここに誰かいるか?」  「な――何よ」ジャネットはぼうっとしていった。  二名の兵士が二人のそばをすばやく通りすぎた。一人は大きな懐中電灯を持ち、その明るい、丸い目が、探るように暗闇を飛び回った。二人目の兵士はカービン銃をたずさえていた。彼がベッドの下や、小さい戸棚のなかを銃でつつくと、鋼鉄の銃剣が獰猛に光った。  「放してよ!どういうこと――いきなり入ってきたりして…やめなさいよ!」  ペロナ大尉は彼女を放した。「セニョリータ。あなたはいつも服を着ないで客を迎えるのですか?」  ジャネットは自分の身体を見おろした。「あら!どうしよう!」彼女はくるりと振りむき、またむきなおって、身を守るようにしゃがみこんだ。  ペロナ大尉は椅子から彼女のドレスをつまみあげると、まるで不潔なものでも扱うように、それを彼女の頭の上に落とした。「これを着て、わたしのつつしみ深さを傷つけるのはやめてください」  ジャネットは服を着ようともがいた。「首が出ない…ひっかかって…さわらないでよ!」  ペロナ大尉は頭からドレスをぐいと下にひっぱった。「セニョリータ!遊んでいる場合じゃないんですぞ!」  ジャネットの頭がドレスから出てきた。「ああ!わ…わ…わかっているでしょうけど、寝巻きを持ってこなかったのよ。下着は洗わなければならなかったし。だから何もなくて…」  「でしょうな」  ペロナ大尉はジャネットをカービン銃の兵士のほうに乱暴に押しやった。兵士は彼女の腕を取り、せき立てるように廊下に連れ出した。そこは光の明滅するトンネルだった。懐中電灯の光が、冷たく青い銃身や、真鍮のボタンに反射していた。さらに多くの兵士がいた。ジャネットのそばでごった返していたため、数をかぞえることはできなかったが、その顔は暗く、緊張し、興奮に輝いていた。  腕をつかむ兵士に先を急がされ、ころびそうな勢いで階段をおりた。火を灯された加圧給油ランプが鎖の先で激しく揺れ、そのいくつもの影が数を増した兵士の上を狂ったように追いかけあい、跳びはねた。ドアのところには三名の兵士がはりつき、なかを見ていた。窓と台所に通じる入り口にも、さらに多くの兵士が配置されていた。ジャネットに付き添ってきた兵士は彼女を放すと、また二階に駆けあがった。  「ズボンをはくあいだ、失礼しますよ」とドウンがいった。彼は片足で巧みにぴょんぴょんと跳びはね、それから足を変えてまた跳びはねた。レピシックは階段脇のテーブルに坐っていた。すっかり身づくろいし、いつもと変わらない、すきのない格好だった。緑の傘まで持っていた。騒ぎのことはまったく心配していない様子で、その表情はぼんやりと一応の関心を示すにすぎなかった。  「わたしのドレス!」ジャネットは必死に裾を引っぱりながら叫んだ。「そ――それに靴もはいてない!」  「わたしもですよ」ドウンが陽気にいった。彼は椅子に坐り、はだしの足も椅子の上に引きあげた。  「大尉はずいぶんあせっているようですね」  「何があったの?どうしたっていうの?」ジャネットは兵士たちを見た。「ケラサ?」  一人の兵士は肩をすくめた。ほかの兵士たちは頭を振った。  「これで何もかもわかりましたね」とドウンがいった。  「もう酔ってないわよね?」ジャネットが疑わしそうに訊いた。  ドウンがうなずいた。「ちょうど酔いがさめたところですよ」  「気分…ひどく悪いの?」  「いいえ」  「酔ったあとは、必ず気分が悪くなるんだと思っていたわ」  「二日酔いになるには、脳みそがなくちゃなりません。わたしは二日酔いに悩んだことはないですな」  「ものすごく酔っていたのよ。いかがわしい歌を歌って、テーブルをたたいて拍子を取って、わけのわからない冗談をいって、お酒を三杯もこぼしたわ」  「そりゃ、わたしらしいや。それでこそ、あなたの古き良き友、へべれけドウンですよ」  「カーステアズがとっても怒っていたわ」  「あいつはすぐ怒るんだ。いつも何かに腹を立てているんです」  ヘンショー一家三人が、おびえた羊たちのようにぞろぞろ階段をおりてきた。一人の兵士がカービン銃の台尻をうまく使って群れを追い立てていた。  「おい!」ヘンショーがサスペンダーと格闘しながらいった。「どうなっているんだ?侵略でも受けたのか?」  ミセス・ヘンショーが叫んだ。「大統領に訴えるわ。手紙を書きますからね!軍艦が来て、あなたたちなんか、みんな、吹っ飛ばしてしまうわ!」  「うげっ!」モーティマーがきんきんする声をはりあげた。「かあちゃん!」  ミセス・ヘンショーはのど輪攻めの形に彼を抱きしめた。「泣かないのよ、坊や!こんなけだものたちに、おまえを撃たせやしないから!」  ヘンショーはシャツの裾をズボンに押しこんでいた。「同盟国からの観光客ってんで、えらく歓迎してくれるじゃないか。ロータリークラブに報告してやる。こいつらに目にもの見せてやる」  「さっき、何をわめいていたんだ?」ドウンが彼に訊いた。  ヘンショーが恥ずかしそうな顔をした。「聞こえたのかい?実は悪い夢を見ていたんだ。とてつもなく恐ろしい夢を。この山並みが寝ている女の形をしていることは知っているだろう?おれは彼女がすやすやと眠っているところを夢に見ていた。そうしたら、カーステアズみたいなどでかいネズミがこっそり出てきて、女は跳びあがり、悲鳴をあげて、スカートをばたばたさせたんだ。おかげで、このいまいましい町は峡谷にまっさかさまよ。そのとき、六人の兵士にベッドを揺らされて、目を覚ましたってわけさ。ぱっちり目を覚まさせてもらったぜ!悲鳴まであげてな!」  すばやく、軽快なカツカツという靴音が階段から聞こえたかと思うと、ペロナ大尉がおりてきて、彼らをねめつけた。細められた目は光を放つ細い裂け目のようだった。  「静かに!」彼はどなった。「静かに!グレッグはどこだ?」  みんな黙っていると、急にジャネットがかみつくようにいった。「彼がわたしの部屋にいると思ったの?何よ、わたし…」  ペロナ大尉は彼女のほうに一歩踏み出した。「静かにしてくれないか」  「はい」すくみあがってジャネットはいった。  台所から突然、数人の声があがり、鍋が床をころがる金属音が聞こえた。ティンプキンスが押されて、つんのめるように部屋に入ってきた。長い、白い寝巻きを着て、くるみ割り人形のような鼻と顎の寄った顔が、怒りにゆがみ、真っ赤になってその上にのっていた。  「やい!これは何だ!わたしは英国国民だぞ。知らないなら教えてやる!断然、抗…」  「黙れ!」ペロナ大尉が命令した。「グレッグはどこだ?」  「あぁぁ?」ティンプキンスはぽかんとしていった。「グレッグ?ベッドのなかじゃないのか?」  「違う!ベッドには寝た形跡がない!」  「急にグレッグにご執心とはどういうわけだい?」とドウンが訊いた。  ペロナ大尉が疑わしそうに彼を見た。「今晩、パトリシア・ヴァン・オスデルの女中――マリアという女――が病院のベッドで刺されて死んだ。警護の兵士も殺された。武器庫からは手榴弾が三発盗まれた」  「わたしじゃないよ」とドウン。「マリアに恨みなんかない。おまけに酔っていて、手榴弾と曲射砲の区別さえつかなかったんだ。誰にでも聞いてくれ。その手榴弾ってのは、バウティスタ・ボノフィレがまた動き出したってことみたいだな」  「いいや。やつは爆弾を盗む必要がない。手元にいくらでもあるからな」  「それは耳よりのニュースだ」とドウン。「どうやら平和な農夫に囲まれて、静かな週末が過ごせそうだ」  「前にもいったかもしれないが、おまえのユーモアにはうんざりする。頼むから黙っていてくれ。マリアの殺害の時刻に、グレッグが姿を消していたという事実は、単なる偶然とは思えない」  「失礼ですが」とレピシックがいった。「発言をお許しください。でも偶然かもしれませんよ」  「なぜだ?」  「わたしが彼を震えあがらせたのかもしれません」  「どういうふうに?」  「わたしの正体を見破ったのだと思います」  「おまえの正体がわかったら、なぜ彼は震えあがるんだ?」ペロナ大尉は信じられないという口調だった。  レピシックはほほえんだ。「もちろん、わたしが彼を殺しにきたと悟ったからですよ」  「何だと?あんたは彼を殺しにきただと?それで本当に殺したのか?」  レピシックは残念そうに頭を振った。「いいえ、いい機会に恵まれなくて。どうも、また、逃げられたみたいです。実に抜け目のないやつですよ。わたしの顔まで知っているとは。それにわたしの正体に気づいたそぶりも見せなかった。しかし、もしかすると、わたしのことを聞いて知っていたか、写真を持っていたのかもしれません。彼を追いかけるようになって、もうかなり長いですから」  「それは非常に興味深い」ペロナ大尉の声は氷のように冷たかった。「どうして彼を追っていたのか、説明したまえ」  「グレッグは避難民ではありません。国家から逃げているのではなく、実は、十以上の国の法律から逃げているのです。そして彼の良心から。もっともあいつに良心があればの話しですが。彼は報酬とひきかえに要人暗殺を専門に引き受けていた、バルカン半島のテロリスト・グループのメンバーです。わたしの兄は侵略される前に政府の職員をしていました。小役人でしたけれどね。妻と、とてもきれいな娘がいました。ある日曜日の朝、みんなそろって教会に行く途中、グレッグか、ほかの五人のうちの一人が――それ以上は犯人を絞ることができませんでした――彼らの乗っていた軽自動車に手榴弾を投げつけたのです」  重苦しい、短い沈黙が訪れた。  「身内の方はどうなったのかね?」ペロナ大尉は優しく尋ねた。  「兄と奥さんは即死でした。姪は爆発で両足を失いました。十七才だったのに」  「まあ」ジャネットは胸が悪くなった。  レピシックは彼のおだやかな話し方で続けた。「幸いなことに、姪は生き続けることはありませんでした。三週間後に亡くなったのです。わたしは病院でずっと彼女のそばに付き添っていました。たいへんな苦しみようでした」  「残りの五人、つまりグレッグ以外の犯人たちは、どうなったのだ?」  「死にました。お願いします。アドルフォ・モラレスとロバのカルメンシタを探しに行かせてください」  「どうするつもりだ?」ペロナ大尉が訊いた。  レピシックはかすかに驚いたようだった。「もちろん、グレッグを追い続けます」  「ロス・アルトスを出た可能性はない」  「お言葉を返すようですが」レピシックは反論した。「わたしは出たと思います。恐ろしく利口な男ですから」  「ありえない。どんなに利口だろうが、この町のどこかにいる」ペロナ大尉は躊躇してからつけ加えた。「お気持ちはわかるし、同情もする。しかしグレッグを探さない、危害を加えない、と約束してもらえないなら、このまま自由行動を認めるわけにはいかない」  レピシックはただほほえむばかりだった。  ペロナ大尉は肩をすくめた。「では、あなたを拘束せざるをえませんな」  「そんなことをしてもまったくの無駄です。遅かれ早かれ、グレッグを見つけ出します」  「わたしがあいつの安全を守っているこの地域では、そんなことはさせない。あなたをわたしの兵舎に監禁する。不自由な思いはさせないよ」  「ありがとう」とレピシックはいった。  オブリアン軍曹が階段を途中までおりてきた。「大尉、あの画家のあまっこはここに泊まるといっていませんでしたか?あたりに姿が見えません」  「アマンダ・トレーシーか!」ペロナ大尉は大声を出した。「彼女はどこだ?」  「知るもんか」ティンプキンスはうんざりしていた。「赤ん坊みたいに安らかに寝ていたのに」  「誰か、あたしに用か?」ぜいぜいとあえぐような、しゃがれた声が尋ねた。「ここにいるぜ。かろうじてな」  入り口の兵士たちが押し合いながら道をあけ、そこをアマンダ・トレーシーがよろよろと歩いてきた。縮れた髪の毛の一方の側がべたりと固まって、頬には赤くぬらぬらした血の手形がついていた。彼女はたくましい筋肉質の足をふんばって立ち、前後に揺れながら、ペロナ大尉を血走った目で見た。  「あのグレッグの野郎。今に見ていろ、ぶんなぐってやる…」彼女は血まみれの手をふらふらと振りまわした。「レディがあいさつしてやったのに、石で殴りつけることはねえだろう…見てろ…」  彼女は木が倒れるように、突然、どさりと前につんのめった。頭が床にぶつかって硬い音をたてた。  ミセス・ヘンショーは悲鳴をあげることにした。狂ったように、意味もなく叫び、力まかせにモーティマーを抱きしめ、彼の目玉を飛び出させた。  ペロナ大尉は肩ごしに命令をどなり、入り口の兵士の一人が頭をかがめて暗闇のなかに消えた。ペロナ大尉はアマンダ・トレーシーのそばにひざまずき、その太くて日焼けした手首を取り、脈を調べた。  「生きている」彼はほっとして深々と息を吐き出した。血を吸って固まった髪を注意深くかきわけた。「やあ、ここだ!セニョリータ・ヴァン・オスデルを殺した一撃と似たような痕がある。ただし深くめりこまないで、表面をかすって切り傷になっている」彼は顔をあげた。「何があったか、知っている者はいないか?」  「グレッグがやったんだぜ」とヘンショー。「聞かなかったのか?グレッグがパトリシア・ヴァン・オスデルとマリアとこいつを殴り倒したんだ。やつを見つけりゃ、事件は解決だ」  「どうしてそう思うのだ?」  「推理したのさ」  「今後、推理は自分の胸にしまっておけ」  「そうかい」とヘンショー。「しかし、あとで、聞いちゃいねえなんて、泣き言は…」  「黙れ!」  ティンプキンスが咳払いした。「目が覚めたばっかりで、ぼんやりしていたんだが…たしか――」  「何だと!」ペロナ大尉が大声を浴びせた。  「おい、やめてくれ」ティンプキンスは憤慨していった。「がならなくてもいいだろう。わたしは、ただ、彼女が毛布に文句をつけていたと、いいたかっただけだ――特に理由もないのに、家に帰って、残骸のなかから自分のものを掘り出すとかいっていた」  「どうしてとめなかった?」  「あぁぁ?わたしが?彼女をとめる?とんでもない。彼女とはちょっとしたいざこざがあったばかりだ」  「あなたがた全員にホテルを出るなと警告したはずだ!」  「大尉」とティンプキンスがいった。「彼女はそれをここにいる観光客向けの警告だと思ったんだよ――わたしや彼女みたいに昔からいる人間には関係ないと」  先ほどの兵士が巻きあげた担架を肩にかつぎ、息を切らして戻ってきた。彼ともう一人の兵士がひもをほどいて、担架を広げ、アマンダ・トレーシーの横の床に置いた。  「ギダト!」ペロナ大尉が注意した。  兵士たちはアマンダ・トレーシーのがっしりした身体をそっと持ちあげ、担架にのせた。  ペロナ大尉は立ちあがった。「これを見てわかっただろう、わたしの警告を無視するとどうなるか。おもしろ半分に命令しているのではないのだ。今晩はもう、全員ホテルを離れてはいけない。兵士を置いて見張らせるからな。グレッグが戻ったら、逮捕する。戻らなくても、われわれがもうすぐ隠れ場所をつきとめるだろう。セニョリータ・トレーシーはこれから病院に運ぶ。セニョール・レピシック、一緒について来たまえ」  「わかりました。ミスタ・ドウン、わたしの傘を預かってくれませんか?」  「ああ、いいよ」  「気をつけて扱ってください」  「わかっている」  レピシックとペロナ大尉は担架を運ぶ兵士のあとからドアを出た。オブリアン軍曹が、さらに多くの兵士をひきつれて階段をおりてきた。  「おまえたち、この鳥かごから飛び立とうなんて考えるな。外に何名か、兵士を残しておく。おれたちは今、機嫌が悪いからな」彼は列をなしてドアから出て行く兵士をかぞえ、一度、意味ありげにうなずいてみせてから、そのあとを追った。  「まったく、何てことをしてくれるんだ!」ティンプキンスはかんかんだった。「ひどいじゃないか!わたしのホテルを牢屋や屠殺場にしやがって!いいか、よく聞け。もうふざけたまねはやめろ。さもなければ、出て行け。ペロナ大尉が何といおうと、とっとと出て行け。わたしは自分の権利を知っている。英国国民なんだぞ。大使に抗議してやる」  彼は骨ばったはだしの足を床に鳴らし、さっさと戻っていった。寝巻きが憤慨したようにうしろでひらひらと舞った。  「おれは寝るよ」とヘンショーがいった。「あしたティンプキンスにバスルームを売りつけるんだ。ちゃんと寝ておかないと、うまくセールスできないからな」  彼は二階にあがり、ミセス・ヘンショーがモーティマーをひきずりながら、そのあとに従った。  ドウンはレピシックの緑の傘を用心深く調べていた。「どういう仕組みなのかな?」  「あら、普通の傘じゃない。わたしがやってみせるわ」  「おっと、いけない。だめだめ。さがって。わかったから」  突然、大きなパンという音がした。  「シャンパンみたいだな」  「今のは傘の音なの?」  ドウンはうなずいた。「ええ。ついでに、あれも傘がやったんですよ」彼はカウンターのほうを指さした。  編み針の半分ほどの長さと大きさの、鋼鉄の光る矢が堅い木に深々と突き刺さっていた。  ジャネットは目をまるくした。「あ――あれをうったの?」  「そうです。これは空気銃なんですよ。しゃれてますな。こんな針を目ん玉にくらったら、たまりません。身体にいいことはないでしょう。そうだな。ここらへんがポンプみたいになっているはずなんだが…ああ、やっぱり!」  曲がった取っ手をひねると、二十センチほど中身がすべりだしてきた。油を塗った金属の鞘だった。  「なるほど」ドウンはそれをひねくり回しながらいった。「自転車の空気ポンプみたいなものだな。このシリンダーに空気が圧縮され、つまみをはずすと筒を通して空気が放出される――あの鋼鉄の針と一緒にね。うまくできている。近距離なら狙いも相当正確だろう」  ジャネットに見守られながら、彼はカウンターのほうに歩いていって、鋼鉄の針を引き抜きはじめた。  「空気銃って、おもちゃだと思っていたけど」  「今は何だと思います?」  「な――なんていうか、残忍なものなのね!」  「まったくです。この針は五センチもくいこんでいる。反対の端には革の座金がついていて、空気の圧力を受け止めるようになっている…」彼は矢をいじるのをやめ、カウンターごしに視線を走らせた。「ドウン君がもう一杯やる時間だな」  カーステアズが尻をついてわめいた。その声は「わめいた」としかいいようがないものだった。まさに憤懣をぶちまける動物の怒号であり、そのあまりの声の大きさに、反響音がランプの鎖をかたかたと揺すって、再び影が踊りはじめるほどだった。  「わかったよ」話しかけられる状態になったとき、ドウンはいった。「人の楽しみを台なしにしやがって!このかたぶつめ!そんなにいやなら、寝ることにするぞ!」 第十一章  翌日の朝、太陽は、地震や殺人、さらにはヒトラーにもかかわらず、惜しみなく光り輝き、にこやかに笑った。ジャネットはハシエンダ・ヌエバ・インクレサの屋上を取りまく手すりに腰かけ、ゆったりとくつろぎながら、ざらざらの漆喰をかかとでけとばしていた。そよ風が吹き、乾燥した、おだやかな空気の流れを顔に感じた。  ロス・アルトスが足もとに広がっていた。いりくんだ小路が赤い傷痕のある屋根のあいだをぬって走り、町は縮小されたように、どの細部も鮮やかに、完璧に見えた。人々は色のついた点々――セラペやレボゾや白いソンブレロ――となって、現状に満足しきった虫たちのように文句もいわず、ぎくしゃくと、忙しそうに動き回っていた。ときどき彼らの声――さえずるような甲高いざわめき――がかすかに聞こえてきた。はるか下のほう、町の境界の向こうには、ブラック・シャドウの峡谷が、地球のピンク色の肉にうずもれる、曲がりくねった静脈のような姿を見せていた。空気が非常に澄んでいたため、ジャネットはぎざぎざに折れた細い、遠い側の橋脚のまわりで、おもちゃのような兵隊たちが作業しているさまを見ることができた。その近くでヘリオグラフが、近い側の橋脚のまわりにいる兵士にむかって、たえずピカピカと信号を送っていた。  ジャネットはそれらをすべて楽しみながら、深く息を吸いこんだ。しばらくして彼女は、反対側の山の斜面を見あげた。上のほうにある家々は、白い、元気のない顔のように、ジャネットを見おろしていた。  右のほう、町の西側には、やぶのからまる茶色い斜面が上にむかって広がっている。ジャネットはその荒涼とした広がりを見渡しながら、ふと奇妙な形の岩が突き出しているのに気づき、視線を戻した。何気なく見ているうちに、それがごつごつした、荒削りの横顔であることがわかった。まるで巨人が特大の斧を巧みに三度ふるい、鼻と口とまゆの出っ張りをきざんでつくったようだった。  ジャネットはやはり漫然と、無関心な様子で、東の斜面を見あげた。そこには三つの四角い石の塔が、三匹の熊のように、大、中、小の順で一列に並んでいた。ジャネットはそれらを見て、ぼんやりとあいさつするようにほほえみかけ、どうして自分はあれらがあそこにあることを知っているのだろうと思った。そのことはもっと頭を使う気分になり、これほどくつろいでいないときに考え直すことにした。  どこか遠くから、小さい、ミツバチの羽音のような音が聞こえてきた。最初はどの方角から聞こえてくるのか、わからなかった。はてしのない丸天井のような空全体から響いてきたのである。ジャネットは小手をかざして目をこらした。  羽音は一段と大きくなってうなりを生じだした。それははっきりと北の方角から聞こえた。一度、遠ざかるように小さくなったのだが、次の瞬間には、二倍のうなりをあげて下降し、ぐんぐんと信じられない速度で近づいてきた。  ジャネットの目はついにそれをとらえた――青空を滑走するぼんやりした黒い点だった。うなりは深い、よどみない轟音に変わり、点に見えたものが、両側にこぶのような腕を突き出しはじめた。  屋根の落とし戸につながる、ぐらぐらしたはしご段から、突然、靴音がして、ペロナ大尉が息せき切って飛び出してきた。  「失礼、セニョリータ。ここがいちばんいい場所なのです…どこです、飛行機は?」  ジャネットは指さした。「あそこよ」  飛行機が進路をそれ、峡谷にむかって急降下しようと機体を傾けると、黒い点はずんぐりした十字の形になった。ヘリオグラフが機体に反射した。  エンジンは急に爆音をたて、機体は急上昇した。それから一定の間隔で神経質なエンジン音を響かせながら、町の上をなめらかに、注意深く滑空してきた。ジャネットは、それが巨大なエンジンを搭載した、翼も機体も短い追撃機であることを見てとった。  「やっぱりだ!」ペロナ大尉が勝ち誇ったように叫んだ。「エンリケだ!」  「誰?」  「弟ですよ。中尉なんです――パイロットですよ。医薬品を持ってきてくれたんです――オルテガ中尉のために破傷風予防のワクチンを。見てください!ほら、見てください!」  飛行機は広場の上で急降下し、すばやい、危険な猛鳥のように、ごく低空まで舞いおりてくると、機体の後部から何か小さなかたまりを一つ、二つ、三つと投げだした。それらはプロペラの後流に吹き飛ばされ、流されたかと思うと、いきなり何かがパッと開いた。小さな緑色のパラシュートが悠々と左右に揺れながら落下してきた。そのあいだ兵士たちが着地点を目測しながら、その下を走り、叫んでいた。  飛行機はきりもみしながら上昇した。  「スカーフを貸してください。スカーフを!」  ジャネットは首からスカーフを取った。「でも、どうして――」  ペロナ大尉は手すりに飛びあがってバランスを取ると、頭の上で激しくぐるぐるとスカーフを回した。  「弟さんからは見えないわ」  「見えますとも。ここにいることを知っているんです。きっと見てますよ!」  飛行機は急に水平飛行に移った。こぶのような翼が上下に揺れ、太陽が反射して目もくらむような光の縞をつくった。  ペロナ大尉は手すりの上で危なっかしくワルツを踊った。「見ましたか?さすがエンリケだ!タカのような目をしている!」  ジャネットは長靴をはいた足をつかんだ。「手すりからおりてちょうだい!落ちるわ!」  ペロナ大尉は息を切らして彼女のそばに飛びおりた。「わたしが見えたんですよ!見てください!ほら!」  飛行機は恐るべき正確さで機体を傾け、彼らのほうにむかって機首を下げた。エンジンは全開で、轟音がいっそう深くとどろき、ジャネットは頭のなかで大きな太鼓を打ち鳴らされているような気さえした。飛行機は巨大な弾丸のようにますます下降し、ジャネットは振動に膝がぶるぶる震えるのを感じた。すると飛行機は不意に宙返りをして、機首を上にむけた。黒い影が二人にふれ、消えた。  ペロナ大尉はうれしそうに笑った。「さすがエンリケだ!わたしたちを怖がらせようとしたんですよ!」  「そ――そうなの?」ジャネットはつばを飲みこみながら訊いた。  ペロナ大尉はにやりと笑った。「エンリケはメキシコ一のパイロットです。見ていてください!」  飛行機は驚くべきスピードで高度をあげ、再び機体を斜めにして横すべりしてきた。屋根とすれすれに飛ぶものだから、ジャネットは手を伸ばせば機体にふれることができそうな気がした。機体は不可能な角度に傾き、彼女はコックピットを包む薄葉紙のような、ボンネット型の覆いが開いているのをちらりと見た。パイロットが身をのりだし、黒くおおわれた腕を一本突き出していた。  「よしきた!」ペロナ大尉は両腕と頭で興奮したように肯定の仕草をして見せた。「セニョリータ、手すりに立つんだ!」  「な――何よ」  「急いで!弟にもっとよく見えるように!」  ジャネットはあっという間に両手で腰をつかまれ、手すりの上にのせられた。彼女は口を開けて叫ぼうとしたが、そのとき飛行機がまた戻ってきた。さっきよりも速度をあげ、さらに低く、さらにすれすれを通りすぎた。通過後の嵐にもまれて、彼女はめまいを感じたようにふらふらした。まばたきする一瞬に、ヘルメットをかぶったパイロットの不気味な頭が、彼女の顔をのぞきこむのを見た。  ペロナ大尉は、また、彼女を手すりからおろした。「ほら、見ていてください!」  飛行機は宙返りをし、彼らのほうにうなりをあげて飛んできた。通りすぎるとき、ジャネットはパイロットの両腕がコックピットからまっすぐ突き出されているのを見た。ボクシングの勝利者のように、手を合わせてゆすっていた。  ペロナ大尉が大笑いした。「エンリケらしいな!わたしに、おめでとうをいっているんですよ」  「何がおめでとうなの?」ジャネットはくらくらしながらいった。  「あなたについて、わたしと意見が一致したのです」  「わたしのこと…いつ、わたしのことを話したの?」  飛行機のエンジンが不気味にうなった。  ジャネットはたじろいだ。「もう来ないようにいってよ!」  「帰るところですよ。ほら」  飛行機は屋根の上のずっと高いところを飛び、峡谷のむこう端の兵士たちにむかって下降し、ヘリオグラフの信号に対して翼を上下に揺すった。飛行機は急上昇し、もとの黒い点になって、山のむこうに消えた。  「もっと曲芸ができるんですけど、今は忙しいんですよ。それにあれは新しい追撃機の一つで、曲乗りして遊ぶためのものじゃない。スカーフをお返しします、セニョリータ。ありがとう」  「わたしのこと、何ていったの?」ジャネットはスカーフを受け取りながら、疑わしそうに訊いた。  「とてもかわいらしくて、とてもおバカさんだといったんです」  「おバカさん!」  「別にけなすつもりはないんですよ。それにわたしがいわなくても、弟はあなたがおバカさんだということを知っているでしょうから」  「どうしてよ?」  「合衆国の若い女性のことなら、何でも知っているんです。向こうの学校を出ましたから」  「どこの学校?」  「ハーバードというところです。そんなところに行くなんて、実に不運なことですが、しかたありませんでした」  「不運?どうして?」  「彼は三男なんですよ。だからいい教育を受けさせることができなかった」  「いい教…まあ、ハーバードは合衆国で最高の大学の一つよ!」  「おっしゃる通り…合衆国ではね」  ジャネットは彼をねめつけた。「じゃあ、あなたはどこに行ったの?」  「わたしは幸運でした。家族に余裕があったので、最高の教育を受けることができた。メキシコ、スペイン、ペルーの世界最高の大学で学びました。わたしは何でもよく知っているんですよ。だから、あなたの知ったかぶりがおかしくてならないのです」  「あら、そうでしたの。いいこと、合衆国の学校制度は、どこに出したって最高なんだから」  「それは誤解ですよ」  「誤解じゃないわ!」  「では、なぜ合衆国にはあんなに愚かな人がたくさんいるのです?」  「どうしてここには愚かな人がたくさんいるのよ?」  「どこにですか?」ペロナ大尉が丁寧な口調で尋ねた。  「とっても――すぐそばに――一人いるわ!」  「わたしのことですか?」  「そうよ!」  「わたしが愚かだと思うのですか?」  「思うわ!」  「ほらね。そういうふうにバカなことをいう。あなたには真の教育を理解する能力がないんですよ。自分は教授だなんて嘘をついたのも、愚かしいことです」  「ちょっと、いいかげんにしなさいよ!わたしは夜も週末も夏休みも、ずっと勉強したのよ。学士号を取って、修士号を取って、二つの大学から准教授の資格も取ったんだから」  「専門分野は?」  「ロマンス語よ!」  ペロナ大尉は眉をつりあげた。「ロマンス?」  「あなたが考えているものとは意味が違いますからね!」  「でしょうな。ほかに、おっしゃりたいことはありますか、セニョリータ?」  「ええ、あるわよ!」  「じゃ、坐ってもいいですか?しっかりお話を承りますから。とても疲れていましてね」  「あら、寝てないの?」  「一睡も」ペロナ大尉は元気のない声で認めた。「一晩中起きて、セニョリータ・トレーシ―の意識が回復するのを待っていました。夜明けには捜索隊を組織して、各隊の担当地域を割り当てました」  「ミス・トレーシーの容態は?」  「もう大丈夫です。今日の夕方には退院できます。強烈な一撃でしたが、重傷にはならなかった」  「ミスタ・レピシックは?」  「最後に見たときは、わたしのベッドで寝ていました。すっかり監禁を楽しんでいるようでしたね」  「あの方はお気の毒だわ。あんな恐ろしい悲劇が…」  「同情はグレッグのためにとっておいたほうがいい。将来、彼はえらい目にあうだろうから」  「彼は見つかった?」  「いいえ」  「ミス・トレーシーは何ていっていたの?」  「ティンプキンスのいう通りでした。わたしの警告は自分には関係ないと思っていたのです。それに自分の身は自分で守れると過信していた。彼女は暗くなってから家に帰って、寝具や服を取ってこようとしました。戻るときに病院の裏の近くでグレッグに会い、いつものようにふてぶてしく話しかけたのです。彼は持っていた石で彼女をなぐりつけた」  「でも、どうしてそんなことを?」  「病院に忍びこもうとしていたんだと思います。マリアを見つけて殺し、パトリシア・ヴァン・オスデルの殺害と、マリアへの暴行の犯人が彼だと証言されないように」  「バウティスタ・ボノフィレは見つかった?」  「まだです!」ペロナ大尉は怒ったような、いらいらした仕草をした。「見つからないはずはないんだが!聞いてください、セニョリータ。この町は、この屋根から全体が見渡せるくらい小さい。どの家も一つ残らず見えますよね。さらにバウティスタ・ボノフィレもグレッグも町から出て行くことは不可能なのです。外に通じる道は、けもの道に至るまで監視されている。この近くにはいくつもの哨舎があって、部下が何キロ四方も見張っているのです。このあたり全域をですよ。われわれは、どこもかしこも徹底的に捜索しました。今は二回目の捜索中です。でもグレッグとバウティスタ・ボノフィレは見つからない。しかしここ以外の場所にいるはずはないんだ」  ドウンが咳払いをした。落とし戸から頭と肩を突き出していたのだ。彼はにっこりほほえみ、こういった。  「お邪魔して悪いんですけど、兵舎から無線でメッセージを送ってもらえないかと思って」  「できない」ペロナ大尉はきっぱりといった。「君の探偵局にはもうメッセージを送ってある。無事だとな――今のところ」  「そんなつれないことをいわないでくださいよ。送っちゃまずい情報は流しませんから。妻と子供を安心させてやりたいだけなんです」  ジャネットはびっくりした。「結婚していたの?」  「もちろんですよ。話しませんでしたか?子供が三人いるんです。小さい女の子がね。とってもかわいいんですよ。わたしから直接電報が届かないと心配するんです。妻もですよ。家を離れるときは、二日おきに子供に電報を打つんです。費用は当然、探偵局が持つんですけどね。この地震のあと、電報を送らなかったら、わたしに何かがあったんだと思うでしょう。死にかけているんじゃないかとか。大尉、お願いしますよ。七歳の子ははしかにかかって、家は隔離されているし、とっても寂しがっているんです」  「まあ、許してあげて!」  ペロナ大尉は眼を細めてドウンを見た。「どんなメッセージを送りたいんだ?」  「子供が好きそうな、くだらない文句ですよ。パパとカーステアズは元気だとか、おまえたちのことを気にかけているとか、愛しているとか。あなたの部下だって、それが子供にあてたものだってわかると思いますよ」  「そうだな」ペロナ大尉は迷いながらいった。「いいだろう」  ドウンはきまり悪そうにいった。「ピッグラテンを使ってもいいかな?」  「何だ?ピッグ?」  ジャネットが説明した。「小学生がふざけて使う言葉よ。単語の音節をひっくり返してしゃべること」  「子供たちのためですよ。それが大好きなんだ。電報を送るときはいつも使うことにしているんです。もちろん誰にでも読めるんだけど、子供たちには暗号みたいで、大受けするんです」  「殺人のことも、バウティスタ・ボノフィレのことも伝えないと約束するか?」  「絶対。約束する」  ペロナ大尉はポケットからメモを取り出し、何事かを書きつけ、そのページを引きちぎった。「ほら。送信装置は本部にある。係の軍曹にこれを渡せ。メッセージを送ってくれるだろう――それが子供あてのものならな」  「感謝しますよ」とドウンはいった。彼は下にむかって足を蹴った。「はしごをおりろ、カーステアズ。ほらほら、さがれ。このウドの大木め」彼の頭は落とし戸の下に消えた。  「いい人だわ」  「わたしもそう思うことができたらいいのですがね」ペロナ大尉は憂鬱そうにいった。「エルドリッジの死は、本当に事故だったと思うし、ドウンはパトリシア・ヴァン・オスデルとマリアの殺害に関係がないと信じたい。事件に関しては、あいつよりもわたしのほうがわかっているつもりです。それでもあいつを見ていると、心配になる。ここにだけはいてほしくない人間ですよ、あいつは。機転が利きすぎるし、抜け目がないし、経験もありすぎる。それに短時間で事件を解決しないと、わたしの立場が非常に悪くなる可能性もある」  「どうして?あなたのせいじゃないのに」  ペロナ大尉はゆっくりとしゃべった。「こういうことです。ナシオ将軍がバウティスタ・ボノフィレの捜索を担当していて、わたしは副司令官です。カヤオ大佐の配下にあるのではありません。もっともカヤオ大佐は上官ですから、ある程度は彼の意見を尊重しますけど。彼はここの地区長官であるにすぎません。ナシオ将軍の部隊は対諜報活動の専門家集団です。山賊だけじゃなく、危険分子やスパイを取り締まるんです。わたしは志願して彼らと働くことにしました。名誉なことですからね」  「わかるわ」  「ドウンが撃ち殺した男――ガルシアですが――をつけて、ロス・アルトスに来たとき、われわれはバウティスタ・ボノフィレがどこか近くにいるに違いないと思いました。バウティスタ・ボノフィレはガルシアと連絡を取っていることがわかっていましたから。ただし、それがどういう内容の連絡かはわからなかったし、今もわかっていません。それからナシオ将軍の計画が実行されました。町の出入り口は昼も夜も監視されました。レピシックには監視の目をくぐられてしまいましたが、あれはガルシアを捕縛しようと混乱していたからです。みずから出頭しなかったとしても、すぐその存在は報告されていたはずです。わたしたちは絶えずガルシアを見張っていました――誰と話し、誰と会い、誰に目をむけたかということまで注意していたのです。しかしバウティスタ・ボノフィレは隙を突いて彼に警告を与えた。われわれはガルシアを追いかけて町中を行ったり来たりしました。町の外に出ようとすれば、道を封鎖し、バウティスタ・ボノフィレが助けの手を差し出すのを待っていたのです。たしかに、そんな見込みはほとんどありませんでした。バウティスタ・ボノフィレは冷血な男で、人を助けるためにわが身を危うくするようなまねはしません。それでも、あのとき、あなたがた観光客がロス・アルトスを出ようなんてしていたら、来るときとは比較にならないくらい恐ろしい目にあっていたでしょう」  ジャネットは身震いした。「きっとそうでしょうね!」  「それからガルシアがドウンに撃ち殺された。ナシオ将軍はそうした突発的な事態に対しても計画を用意していました。町は小さな区画に分割され、それぞれの区画に兵士が配備されました。そしてさっそく住人を身体検査し、尋問しはじめたのです。博物館にご案内したとき、わたしは仕事をほったらかしていたのではありません。部下はみんな、その道のプロなのです。何をし、どうやるか、熟知している。わたしは彼らの見つけた証拠が集まるのを待ち、それをふるいにかければよかったのです。そうしたら地震が起きてしまった」  「ナシオ将軍もそこまでは予想できなかったのね」  「ええ。さすがの将軍も、そこまではね。今、わたしは孤立してしまい、事態を迅速に手際よく処理しなければなりません。パトリシア・ヴァン・オスデルとマリアの殺人、これはすぐに解決しなければ、わたしだけでなく、ナシオ将軍の面子にもかかわってきます。ほかの誰でもない、このわたしの責任です。しかも非常に重大な責任なのです」  「力になってあげられるかもしれないわ」  ペロナ大尉は彼女を見た。「セニョリータ、子供の遊びじゃないんですよ。わたしの探している男が、どんな相手なのか、わからないんですか?グレッグもバウティスタ・ボノフィレも殺人者、また誰かを平気で襲うかもしれないんですよ」  「もちろん、わかっているわよ」  「では、どうか、あなたはその笑止千万な観光とやらに専念してください。重要な問題は、それを理解している人に任せておくことだ。もう行かなければ。失礼」  「さようならっ!」ジャネットはきっぱりといった。 第十二章  ジャネットは地元の習慣にあわせて昼寝をし、午後になって早々に、眠い目をこすりながら、ハシエンダ・ヌエバ・インクレサのレストラン・バーにおりてきた。部屋は暖かくて薄暗く、こぼれたワインとタバコのにおいが適度に立ちこめていた。  「これがいいわ!」ミセス・ヘンショーが勢いこんでいった。彼女はアマンダ・トレーシーの絵を一枚、手に取っていた。「こういうのがほしかったの。居間に飾ったら、すてきだと思うわ」  「落ちつけ」ヘンショーが忠告した。台所のドアの前に腰かける彼の姿は、ネズミの穴の前で身構える猫のようだった。「絵なんか買わないぞ」  「居間にぴったりよ」ミセス・ヘンショーはうっとりと絵をながめながらくりかえした。「暖炉の飾り棚の上にかけるの」  「はしにも棒にもかかんねえのにか?」  ティンプキンスが台所から出て来た。「夕食は六時きっかりにさせてもらう。ごちそうじゃないが、いやなら食べなくてもいい」  「ミスタ・ティンプキンス。今日、わたしの部屋をお掃除しました?」とジャネットが訊いた。  「いいや」  「じゃ、誰がするの?」  「あんたさ。きれいにできるものなら、やってくれ」  「このホテルに従業員はいないの?」  「いない。必要ないからな」  「ティンプキンス」とヘンショーがいった。  ティンプキンスが彼を見た。「今度は何だ?」  「坐れよ」ヘンショーはちょっと用事があるんだと指で示し、おびき寄せるように笑みを浮かべた。「このすてきな椅子に坐ってくれ。まあ、くつろげよ、ティンプキンス。一日中、働きづめじゃないか」  ティンプキンスはゆっくりと警戒しながら坐った。  「おれはね、あんたの仕事の問題点について、ずっと考えていたんだ」  「仕事に問題なんかないぞ」  「そこだよ。まさにそこが問題なんだ。あんたはここにしゃれたホテルを構えている。このホテルを金の鉱山に変えることができるんだぜ」  「どうやって?」ティンプキンスはいぶかしげに尋ねた。  「まわりの状況をよく見ろ。そして分析するんだ、ティンプキンス。どんなときでも、それが第一歩だ。ロス・アルトスにはすばらしい風景、昔をしのばせる雰囲気、芸術の歴史がある。こここそ、まさに人をひきつける観光スポットだ。しかもあんたは他に先んじて有利な立場にある。うらやましいぜ、ティンプキンス。近い将来、ほかの観光地とは違って、あんたのところだけはざくざく金が舞いこむ」  「あぁぁ?」  「そうとも。国際情勢を考えてみろ。この戦争が終わるころには、ヨーロッパはめちゃくちゃになっている。嘘じゃない、ティンプキンス、おれにはわかるんだ。もう人はあんなところに行こうとはしない。おまけにそれだけの金もない。みんな、手近なところで、何か新しい、変わったものを見たいと思うようになる。外国の雰囲気を味わいたい、外国で冒険を楽しみたい。そんなとき人はどこに行くだろう、ティンプキンス?」  「どこだ?」  「ここだよ。ロス・アルトスだよ。何百人という人間がポケットに金を詰めこんでここに来るぞ。そしてロス・アルトスに来たら、このホテルに泊まるだろう――当然じゃないか。あんたはたちまち大もうけ、このホテルは金のなる木だ。たとえば、今、部屋の使用料はいくらだ?」  「一泊五ドルだ」  「この泥棒――いやいや、そこがおれのいいたいところさ。あんたはもっと料金を取ることができる――新しいものを取り入れていけばな」  「新しいものを取り入れる?」  「そうだ。たとえばバスルームだよ。いいかい、おれはバスルームを売ろうっていうんじゃないんだ、ティンプキンス。そんなふうには絶対に思ってくれるな。説明に使うだけなんだから。さあ、旅行者が町の観光を終えて、ここに来るとするよ――疲れ切って、ほこりまみれで、へとへとだ――そんなとき、このホテルのバスルームに入り、こんなものを目にしたとする」ヘンショーはウサギを取り出す手品師よろしく、光り輝くパンフレットをさっと取り出した。「4―A、これだよ。すばらしい設備じゃないか。贅沢で豪華。黄色と黒のタイル張り、保証付きニセ大理石で縁取りし、設備はプラスチックの最新型だ」  「いらん!」  「待て待て。買えといっているんじゃないんだ。ほかにもっとぴったりしたものがあるかもしれない。だがな、旅行者は感心するぜ、ティンプキンス。合衆国ではバスルームが人をはかる尺度なんだ。家のなかでいちばん大事なところだからな。旅行者は4―Aを見て感心し、さわやかになって出て行くだろう。あんたのホテルは口コミでほかの旅行者に伝わっていく。さあ、このパンフレットに目を通してみろよ。気に入ったものを選んでくれ」  「いらん!」  ドウンはバーの隅っこで帽子を目深にかぶって坐っていた。カーステアズはその前で気持ちよさそうに深いいびきをかいて寝ていた。  「ティンプキンス」ドウンは帽子を押しあげていった。「イギリスはどこの出身なんだい?」  「わたしは英国国民だ」  「カナダ人でもあるだろう」  「あぁぁ。それがどうした?」  「別に。イギリスに行ったことは?」  「あるさ!」  「どのくらい?」  「二週間だ」ティンプキンスがむっつりといった。彼は立ちあがった。「これ以上、邪魔されるのはごめんだ。こっちは忙しいんだからな」  彼は台所に戻り、ドアをばたんと閉めた。  「ありがとうよ、ドウン。おかげで新しい糸口が見つかったぜ。イギリスのバスルームがどんなものかは知らんが、カナダには一度行ったことがある。ナイアガラの滝に行って、橋を渡ったんだ。今度、やつをつかまえたら、その話しをさしはさんでやろう。見込みのある客とはいつでも共通の話題を持つべし。おれが言葉巧みに誘いかけるのを見てたかい?きっと売りつけてやる。見てろよ」  「ミスタ・ドウン。メッセージはちゃんと送れた?」ジャネットがいった。  「ええ、おかげさまで。子供たちが大喜びしますよ」  「何才なの?」  「五才と七才と九才。二人はブルーネットで、一人はブロンドです」  「奥さんの髪は何色?」  「変化するんですよ。今は赤毛です」  「ハイヨー、シルバー!」モーティマーが叫んだ。彼は正面ドアから馬のように駆けてきた。テニスシューズに拍車をしばりつけ、それを踏みつけないように、ガニ股と同時に内股で走らなければならなかった。内側に紙を詰めたソンブレロが危なっかしく頭の上で揺れ、巨大なつばがひ弱な肩のはるか外にはみ出していた。  「ドウドウ、シルバー」彼は跳びまわり、拍車で蹴るまねをしながら、たけだけしく命令した。手に組紐の飾りがついた革のむちを持っていて、ぶんぶん振りまわした。  「そのむちはどこで見つけた?」ヘンショーが訊いた。  「拾ったのさ」  「じゃあ、もとに戻しとけ。おれが撃ち殺されてもいいのか、ぼんくら」  「おまえなんか、消えうせろ」とモーティマーが挑発した。彼はドウンのほうに跳ねていった。「おい、でぶっちょ、このノミのたかったワン公に乗ってもいいか?」  「カーステアズかい?ああ、いいとも。遠慮するなよ、モーティマー」  モーティマーは寝ているカーステアズにまたがった。「立て!」と彼は叫び、むちでカーステアズをなぐった。  カーステアズは立ちあがった――しかもすばやく。モーティマーはあざやかなとんぼ返りをうって、まともに顔から床に落ちた。カーステアズがその上に坐りこんだ。  「そうなるだろうと思ったよ」とドウン。  モーティマーはひいひいと苦しそうに叫んだ。ミセス・ヘンショーが金切り声を出して、駆け寄った。モーティマーの腕が一本、カーステアズの下から突き出ていた。彼女はその手をむずとつかむと、全力で引っぱった。  「どいてやれよ、カーステアズ。おチビさんがつぶれてしまうぜ」とドウンはいった。  カーステアズは面白がりこそすれ、いうことを聞きそうになかった。ドウンはため息をついて立ちあがり、カーステアズの突起のついた首輪をつかんで持ちあげた。ミセス・ヘンショーはモーティマーを引っぱった。何も起きなかった。  「いいかげんにしろ、カーステアズ」ドウンは両手につばを吐きかけ、首輪をつかみなおし、力の限りうしろに引っぱった。  カーステアズは立ちあがり、ドウンもミセス・ヘンショーも勢いよく尻もちをついた。モーティマーは青ざめ、口を大きく開き、目はブドウの粒のように飛び出していた。窒息しかけた人間のように、思い切り息を吸い込み、すぐにまたそれを吐き出した。  「うげっ!かあちゃん!」  ミセス・ヘンショーは彼の上におおいかぶさって、おいおいと泣いた。「かわいそうな、かわいそうな坊や!泣かないでちょうだい!あのいやらしい、うす汚い、老いぼれ犬は、兵士たちに撃ち殺してもらうから!」  「そんなことさせるものか」とヘンショーがいった。「勲章か、ビフテキを買ってやらにゃならん」  ドウンはそっと服をはたいた。「こんちくちょう」と彼はカーステアズにいった。「ここの床はささくれているんだぞ」  カーステアズはあくびをして、ドアのほうに歩いていった。彼は肩ごしに振りかえり、ドウンを見た。  「出て行っていいぞ。兵士はいない。誰もとめやしないから」  カーステアズは喉の奥からうなり声を発した。  「おい、おまえはもう大人の犬だ。いちいちオレが見てなくても、自分のことは自分でできるだろう」  カーステアズが一声吠えると、石油ランプが跳びはね、鎖がじゃらじゃらと鳴った。  「わかったよ、わかったよ!」ドウンはドアのところへ行き、カーステアズの尻を膝で押した。「さあ、行け、このうすのろ」  モーティマーは起きあがって、袖口で口と鼻をふいた。  ミセス・ヘンショーは心配そうに、たわいもないことをいいながら、彼の顔をふいたり、話しかけたりした。  ティンプキンスが台所のドアを開けた。「何を騒いでいるんだ?このホテルで暴動はお断りだぞ!」  「ティンプキンス」ヘンショーがすばやく話しかけた。「カナダの出身とは知らなかったよ。美しい国だな、あそこは。かねがね、すばらしいと思っていたんだ。ナイアガラの滝からカナダに行ったことがあるよ。それで思い出したんだが、新型の滝状水洗システムというのがあってな。説明するから、ちょっと坐ってくれないか――」  「いらん!」とティンプキンスはいい、ドアを思い切り閉めた。  「気持ちが傾いてきたな」ヘンショーは満足そうにいった。「落としてみせるぞ」  外の舗道を怒ったようにカツカツと打ち鳴らしながら、誰かが駆けてくる足音がした。ペロナ大尉がドアから飛びこんできた。  「どこにいる?ドウンはどこだ?」  「ちょうど犬の散歩にでかけたわ」とジャネットがいった。「どうしたの?」  ペロナ大尉は手にした黄色い紙切れを彼女の目の前でうちふった。「見ろ!これを!」  ジャネットは紙をつかんだ。「ミスタ・ドウンあての電文だわ」 「読んでみろ!」ペロナ大尉はどなった。  鉛筆で書かれた大文字活字体のメッセージだった。軍の無線係が電文をそのまま書き取ったものであることは明らかだった。英語でこう書かれていた。 どうしてピッグラテンなんだ よっぱらいのたわごとでないとわかるまでいちじかんもかかったぞ ヴァン・オスデルのべんごしにれんらくしたらパトリシアがころされたとはしらなかったといい さっそくつうじょうりょうきんプラスかいけつできればボーナスというじょうけんでけいやくをむすんだ さらにしょうらいハエとりがみがいしゃのしごとをわれわれがいってにひきうけることになる おめでとう しっかりやってくれ じゅうをぶっぱなしたりいほうこういはなしだぞ  署名は同じ大文字活字体でこうあった。  A・トゥルーゴールド サバーンこくさいたんていきょくきょくちょう  ジャネットは顔をあげた「で――でも、どういう――」  「何が子供たちだ!」ペロナ大尉は爆発した。「何がピッグラテンだ!あの犯罪者は探偵局にメッセージを送り、パトリシア・ヴァン・オスデル殺しの解決を自分たちに委託させたんだ!」  「でも、無線の係が――」  「彼は英語を読んで理解することはできるが、堪能ではない。まんまとドウンにだまされた。あいつは係にメッセージを一語ずつ伝えた。たえず訂正したり、単語の形を変えて。おかげで係は混乱してしまったのだ。ドウンは一応、単語の文字の入れ替え方を説明した、というか、説明するふりをしたらしい。しかし係は外国語ということで訳がわからなくなり、変形した単語の電文をそのままさっさと送ってしまったというのだ」  「ドウンに子供はいないの?」  「いるものか!結婚すらしていない!」  「あら、わ――わたしにはそういったけど――」  「その通り」ペロナ大尉は怒りながらいった。「あいつはあなたにそういい、あなたはわたしにそういった。覚えているかね、家族を安心させるために電報をうたせてやれと頼んだのは、あなただ!あなただからな!」  「だって、知らなかったんだもの――」  ペロナ大尉は彼女におおいかぶさるように近づいた。「セニョリータ、いつもながら、あなたの無知にはおそれいりますな!」  「あら、そう」  「そうですとも。今後、無知は自分の胸にしまっておいて、他人に迷惑をかけないことだ!」  ペロナ大尉はくるりとむきを変え、ドアから走って出て行った。  「気でも狂ったみたいだな」とヘンショーがいった。  「本当ね」とジャネット。「でも、彼を責める気にはならないわ」彼女はドアにむかって歩き出した。  「どこへ行くんだ?」  「人間にはあきあきしちゃった。石の像とお話ししてくる!」  「まったく、ここは変人ぞろいだぜ」とヘンショーはいった。「おれにも変人がうつらなきゃいいけどな」 第十三章  ドウンとカーステアズは町の中心部からずっと山腹を登った狭い道を歩いていた。曲がりくねった小道をあてもなく行ったり来たりしているうちに、いつの間にかそこにたどり着いたのだった。ドウンは立ち止まって、めずらしそうに三メートルの高さの壁を見た。てっぺんにはとがったガラスが埋め込まれ、ちらちらと不気味に光っている。その壁は道にそってたっぷり百メートルは続いていた。地震の名残として真新しいひび割れがいくつか走っていたが、それでもとてつもなく頑丈そうにみえた。  「ホー!」と急に声がした。  ドウンが振りかえると、三メートルほどうしろに少年が立っている。  「ビィィグ」少年はカーステアズを指さしていった。ドウンを見るとにやりと笑った。前歯が三本、欠けていた。  「でかいばかりの能なしさ。前にどこかで会わなかったか?」  「じゅせんと ちょだい」  「そうくると思った」ドウンは十セント硬貨をポケットから出した。「だが、今度はただではやらないぞ。プリディリップという男のことを聞いたことがあるか?」  「ああ?」  「プリディリップという名前の画家だよ」  少年は勝ち誇ったようにうなずいた。「むーしろん」  「むーしろん」ドウンは考えこみながらいった。「むーしろん…もちろん?」  少年は再びうなずいた。「むーしろん」  「好きなようにいうがいいさ。どこに住んでいた?」  少年は両手をはためかせ、目を敬虔そうに空にむけた。  「飛ぶ。上に。天使?天国?」  「むーしろん」  「死んでいることは知っている。死ぬ前はどこに住んでいた?」  「すんでいた?」  「家だよ。おうち。ねぐら。住居」  「ロス・アルトス」  ドウンはため息をついた。「それは知っている。ロス・アルトスのどこだ?」  「ロス・アルトス」  「よしよし、わかった。そいつの絵を見たことがあるか?」  「ああ?」  「絵だよ。風景とか、女とかを描いた絵だよ」  少年は用心深くあたりを見まわした。「しゅけべな しゃしん かいたいか?」  「違う!」  「おじさん うってる。すごいよ。むちむち。うはっ!」  「猥褻写真なんか買いたくない。プリディリップという画家のことを訊いているんだ」  「じゅせんと ちょだい」  ドウンは十セント硬貨を与えた。  「デン ギュー」少年は十セント硬貨を注意深くシャツのポケットに入れると、コマのようにくるっとむきを変え、まっしぐらに道を駆け去った。  「おい!待て!この壁のむこうは何だ?」  少年は肩ごしに叫んだ。「カサ デル コロネル カヤオ!ムイ マロ!」  「とにかく、いっていることの一部はわかったぞ」ドウンはカーステアズにいった。「われらが友人、カヤオ大佐がこのマジノ線のうしろのどこかに住んでいるらしい。ちょいと話でもしに行こうか」 第十四章  ロス・アルトスから見あげる西の斜面は、遠くホテルの屋根から見たときよりも、はるかに傾斜がきつく、ジャネットは半分も登らぬうちに、衝動的にこんなところへ来たことを後悔しはじめた。弾力のある、矮小なやぶが、しつこく絡みつく指でスカートを裂き、うれしそうに揺れる陽炎を払いのける風もなかった。  小石が靴のなかに入り、立ち止まって靴をはたいた。大きく深呼吸したが、薄く、熱い空気が肺に流れこむだけで、少しも爽快感はなかった。彼女はほとんどあきらめかけたのだが、ペロナ大尉や、ドウンや、存在しない子供や、女に対する男の嘘をあれこれ思い出し、うつむき加減に、重い足どりで前進を続けた。  やっとたどりついた人面岩に、彼女は息を切らして寄りかかった。石の台座もホテルから見たときよりずっと大きかった。彼女は眉毛の位置にある突き出た部分を、絶望したように見あげたが、ふと側面に雨風に穿たれたくぼみがいくつもあることに気づいた。  熱く、ざらつく岩に必死になって指先でしがみつき、はりつくようにじわじわと登り続け、とうとう顔が眉と同じ高さのところまで来た。次はむきを変えて、岩の顔と同じ方向を見ればいいだけだ。しかし、これが容易でなかった。ようやくむき直ったのは十分後、爪が割れ、首がむやみに痛み出していた。  ついに彼女は正しい角度でながめることができた。岩の顔は東の斜面を見ていた。ジャネットは専門家のように、片目をつぶってその方向を見た。奇跡的にも三つの塔が――大、中、小の順で――一列に並んで見えた。それらの頂点が下にむかってきれいに斜めに線を描いている。  ジャネットはじっと見つめながら、その斜めの線が塔のむこうの傾斜面のどこにぶつかるかを測定し計算した。見極めがつくと、台座の上におり、斜面を戻りはじめた。  熱気は二倍に勢いを増したようだった。太陽の熱がひりひりと首筋に照りつけた。口のなかは脱脂綿を詰めたようだった。  彼女は三つの塔の台座を黙殺するように通りすぎた。背の低いやぶがスカートにかぎ裂きをつくり、ふくらはぎに赤い、怒りのひっかき傷をつけた。彼女は立ち止まって足を踏みならし、毒づいたが、目は前方の目標にぴたりとすえられたままだった。  そこにたどりついたとき、彼女は自分が何の特徴もない場所にいることに気づいた。傾斜面のほかの部分と少しも変わったところはない。やぶがあり、岩があり、ただそれだけだった。  ジャネットがやぶをけとばすと、足もとからサソリが走り出てきた。ジャネットは凍りついたようにサソリを見つめた。みにくく、おぞましいそれは、小刻みに足を動かして岩の表面を這い、背中に弓なりの毒針を立てていた。ジャネットはごくりとつばを飲みこみ、ロス・アルトスの涼しげな家々をうらやむように見た。  くぐもった、静かな声が、すぐうしろから聞こえた。「そうだよ。ここがお探しの場所だ」  ジャネットは振り返った。何の変哲もないやぶ、何の変哲もない岩が、まるで違うものになっていた。岩は回転軸を中心に上に持ち上がり、岩の下の黒い、四角い穴からは、あるときはティオ・リケス、あるときはバウティスタ・ボノフィレを名乗る男の、影に包まれた細い顔と、澄んだ黒い目がのぞいていた。  「こっちにおいで」彼は静かにいった。  彼女は身体をこわばらせて身構え、小さくうしろに一歩さがった。  バウティスタ・ボノフィレの長い銀色の銃身が陽の光を受けてぎらりと光った。「わたしは容赦なくあなたを撃ち殺すよ。女だからといってためらったりはしない。大勢の人間を何回も殺しているんだ。こっちにおいで」  ジャネットは一歩、また一歩と進んだ。靴底がいやがるように岩にこすれた。彼女は大きく息を吸いこんだ。  「やめておけ」とバウティスタ・ボノフィレはいった。「大きな声を出すと撃つぞ」  「う――撃てるわけないわ――」  「銃声がするからかね?銃声がするから撃てないと思っているのかね?そんなことはないよ。あなたはこの場所がどこにあるか、何を探せばいいのか知っていたが、それでもここを見つけることはできなかった。まして隠れ家があることを知らない人間は、ここを探そうなどとは夢にも思わない。誰かがあなたを撃って、走り去ったと思うだけだ。こっちにおいで」  ジャネットの足はいやいや黒い穴のなかに入った。バウティスタ・ボノフィレは後退し、姿が見えなくなった。  「わたしにはあなたが見えるんだ。はっきりと。なかに入りなさい。階段があるよ」  ジャネットは足で下を探り、岩でできた四角い、小さな階段を見つけた。彼女は一段一段下りていった。ひんやりと湿った、よどんだ空気が顔にまつわりつき、彼女は身震いした。  軽くざらざらと何かがこすれる音がし、頭の上で岩のドアががしりと閉まった。暗闇は、厚い布で目隠しされたような深さだった。彼女は小さくはっと息を呑んだ。  カチッという音とともに、懐中電灯の明るく、まるい光線が下から移動し、彼女の顔を照らしてとまった。目のくらむような白い丸が彼女の世界のすべてだった。それ以外は何も見えず、何も聞こえなかったが、そのときバウティスタ・ボノフィレが落ちついた、考えこむような声でいった。  「どうしてこの場所がわかった?」  「ほ――本で読んだのよ」  暗闇から指が突き出てきて、彼女の喉をなでるようにさわった。「嘘はつくな」  ジャネットは冷たい石に肩を強く押しつけた。「嘘じゃない!本当に本で読んだんだから――教会の下に地下室があると書いてあった、同じ古い日記に出ていたわ。今朝、ホテルの屋根から人面岩を見て、思い出したのよ。日記にはペロナ中尉が――今、ロス・アルトスにいるペロナじゃなくて、その先祖だけど――教会の上のほうにも別の、予備の隠し場所をつくったって書いてある。非常用の小さなものだけど。日記には人面岩と三つの塔を一直線に結べば、その場所に突き当たることも書いてあるわ」  「なるほど。それは知らなかった。わたしは偶然ここを見つけて、これは使い道があると思った。歴史的な場所とは知らなかったよ。あなたの研究はなかなか面白そうだ。しかしそれが危険であるとわかったのは、これが二度目だな。なぜここに来た?」  「ただの好奇心よ…今もここにあるのか調べたかったの――隠し場所が――それに古い遺品がないかと思って」  「なるほど」バウティスタ・ボノフィレは同じ言葉をくりかえした。「はじめて見つけたとき、いくつか古いものが残っていた――ぼろぼろになった古い道具や箱が。ここを改造するのにはずいぶん時間がかかった」  懐中電灯の光は、つとジャネットの顔を離れ、反対の壁の狭い、暗い入り口を照らした。  「ト――トンネル?」  「そうだ」  懐中電灯の光は彼女の顔に戻り、沈黙が果てしなく続いた。  ジャネットはつばを飲みこんだ。「ど――どうするつもり?」  「あなたを、かね?やたらと面倒を起こしてくれたな」  「そんなつもりはなかったのよ――」  「そりゃ、そうだろう」バウティスタ・ボノフィレはおだやかに笑った。「ペロナの先祖がわたしのために隠れ家をつくってくれていたとは、おかしいじゃないか。そのことを知っていれば、もっとこの場所に感謝していたのにな。教えてくれてよかったよ。さて、あなたの処分だが、どうしよう――」  「わ――わたしを撃つ気?」  「どうしようか。迷っているんだ」  それは異常で信じがたい事態だったが、背筋が寒くなるほど現実的でもあった。  彼は歯ぎしりするでもなく、どなるでもなく、いかなる感情も示さなかった。しかし撃ち殺すべきだと判断すれば、今、この場で、何のためらいもなく銃を発射するであろうことを、彼女は不思議なくらい冷静に、はっきりと自覚した。彼女は息を止めて待った。喉元がどきんどきんと脈を打ちはじめた。  「どうしようか」とバウティスタ・ボノフィレがもう一度いった。「あなたは利用できるかもしれない。ペロナ大尉がずいぶん興味を持っているようだからな」  ジャネットは声が震えないようにしゃべろうとした。「わかっているでしょう、あの人があなたを見逃しはしないことくらい。たとえ―たとえ――」  「たとえ、あなたを人質に取っているとわかっていても、かね?わたしはきっと見逃してくれるんじゃないかと思うよ。あいつはわたしという人間をよく知っている。あなたをどうするといえば、必ずその通りにするということをね。それにあいつがあなたに個人的な興味を持っていないとしても、あなたは合衆国の市民だから、いわば公の場でむごたらしく殺されたりすれば、外交的な問題にもなりかねない…そこのドアを抜けて、まっすぐ行くんだ」  懐中電灯の光がそれて、狭い入り口を浮かびあがらせた。ジャネットは緊張しながらそこにむかって歩いた。ごつごつした壁が両側から肩にふれた。彼女の身体が光を遮断し、かすかな光が隙間をぬって前をちらちらするだけだった。彼女はおぼつかなげに手探りした。  「頭に気をつけろ」バウティスタ・ボノフィレが注意した。彼はうしろから音もなくついてきた。「そのまま歩くんだ」  トンネルはどこまでも続いた。空気はほこりっぽく、胸が詰まりそうだった。何度かジャネットは突き出した岩に頭をぶつけた。時間とトンネルは彼女の朦朧とした意識のなかで悪夢のような長さに引き延ばされた。  「ここからはゆっくり行け」  そのとき突然、頭の上で何かがひっかくような、こすれるような音がした。ジャネットはぎくりとして足を止めた。銃口の危険な丸い形が背中に押しつけられた。バウティスタ・ボノフィレの手が肩ごしにするりと伸びて、警告するように唇にふれた。  「静かに」  すばやく、不規則にひっかくような音はやみ、何かが大きく鼻を鳴らした。くぐもってはいるものの、はっきりと、ドウンの声がこういった。  「おまえは野ネズミを獲るような年でもないし、身体もでかすぎるだろう」  また鼻を鳴らす音がし、低いうなり声が聞こえた。ひっかく音がまた伝わってきた。  「いいかげんにしろ。子犬のまねをやめて、そこを離れろ」  カーステアズは怒ったように吠え、その声がジャネットの耳朶を荒々しく打った。  「どうしたんだ?」とドウンが訊いた。「何もないじゃないか」  カーステアズはさらに大きな声で吠えた。  「静かにしてくれよ。オレたちは不法侵入しているんだぜ。ペロナの兵士にオレが尋問されてもいいのか?」  バウティスタ・ボノフィレが暗闇のなかを動いて、ジャネットに耳打ちした。「頭の上に手を伸ばして、岩を押せ」  岩はほかの岩と同様に、釣り合いを取るためのおもりがつけられていて、すいと上に持ちあがると、四角い穴が現れた。太陽の光がまぶしくジャネットの目に飛びこんできた。  彼女はドウンの驚いた顔を見あげていた。彼はとっさに右手を動かそうとして、すぐその動きを止めた。  「いい判断だ」とバウティスタ・ボノフィレがいった。「わたしのいう通りにしないと、彼女を撃つ」  ドウンは取り入るようにほほえんだ。「もちろん、いう通りにするよ。わたしは敵じゃない。ただ、びっくりしただけさ。あんたはバウティスタ・ボノフィレだろう?話しをしたいと思っていたんだ」  「トンネルにおりて来い」バウティスタ・ボノフィレはジャネットの肩にふれた。「さがれ」  彼女はぎこちなく三歩さがった。ドウンは敏捷に四角い入り口からトンネル内におりて来た。両手はなかばあげられたままだった。  彼らの上でカーステアズが怒ったように吠えた。  「犬を黙らせろ!」バウティスタ・ボノフィレが命令した。「ここにおりて来させるんだ!」  ドウンは振りむいて、入り口から上半身を出した。彼はカーステアズの首輪をつかんで引っぱった。カーステアズも反対の方向に引っぱった。  「穴が怖いんだ」ドウンがあえぎながらいった。「おい、来るんだ、ちくしょう!なかに入れ!」  カーステアズの爪が入り口の縁をひっかきながらすべった。ドウンは首輪につかまったまま、半分、宙ずり状態でぶらさがった。  「以前、排水溝に入りこんで――身動きできなくなったんだ」ドウンは息を切らしていった。「それ以来――怖がってね。来い、カーステアズ。飛べ!」  彼は手を放して、ひょいと身体をかがめた。カーステアズは獰猛なうなり声を発し、爪をむき、目を緑色に、残忍に光らせて、その上をまっすぐに飛び越えた。その分厚い胸は杭打ち機のようにジャネットを打ち、彼女は横ざまにひっくり返った。倒れながら彼女は、ドウンが小さな二十五口径自動拳銃を手に、まるでダンサーのように軽快かつ優雅に反転するのを見た。彼は一発撃ち、間髪を入れず、もう一発撃った。  火薬の閃光がジャネットの顔を焼き、こだまする銃の轟音が耳を聾した。けむるトンネルが目の前でぐらりとかしぎ、揺れた。  ドウンは脇を抱えて彼女を助け起こした。「けがはないですか?」  「な――ない、と思うわ」  カーステアズは暗闇でうなった。  「ほっておけ。どこにも行きはしないから」  ジャネットは全身にしのびよる、しびれるようなむかつきと戦いながら、ごくりとつばを飲みこんだ。「あの人は――けがをしたの?」  「ちっとも。死んでしまいました。おっと!気をたしかに!」  「わ――わたし――」  ドウンはよじ登るようにしてトンネルを出ると、入り口から身体を乗りだした。「ほら!手をつかんで!」  ジャネットは手をつかみ、彼は軽々と彼女を新鮮できれいな空気と陽の光のなかに引っぱりだした。  「お坐りなさい。そうそう」  ジャネットは坐って何度も深呼吸した。  「気分はよくなりました?」ドウンは彼女を見つめながらいった。  「ええ」ジャネットはしっかりした声でいった。「本当にバウティスタ・ボノフィレを殺したの?」  ドウンはうなずいた。「そのほうがいいと思ってね。ポケットにもう一匹、ガラガラヘビを持っているかもしれなかったし、わたしはガラガラヘビ・アレルギーなので。カーステアズ」  カーステアズは四角い入り口から首を突き出した。ドウンは首輪をつかみ、引っぱった。カーステアズはうなりながら、固い土の上に這い出してきた。不快そうに身体をぶるっとふるわせ、ドウンを見た。  「見事なインターフェアだったな。感謝するよ」  カーステアズは坐って満足そうな顔をした。彼は小さな、みにくい、赤い染みのある舌を出し、うれしそうにジャネットにむかってハアハアと息をした。ドウンは戻って、トンネルの入り口の岩を蹴飛ばした。岩は回転軸を中心にドアのように動き、音をたてて閉まると、彼らが坐っているパティオの、とぎれることなく続く、平らなタイルの一部になった。  「うまくできている」  ジャネットはまわりに目を走らせた。高い壁が三方を囲み、残りの一方は、陽の当たるベランダによってしめられていた。ベランダには派手な色合いの革のクッションをのせた、クロム製の安楽椅子や、縞模様入りの日よけがついたブランコや、天板がガラスでできたテーブルがいくつか置かれていた。  「やたらと趣味の悪い家ですな」とドウンはいった。「地震であそこの壁の一部が壊れていたのです」彼はV字型の裂け目を指さした。その下には瓦礫が山になっていた。「カーステアズとわたしはあそこから入ってきたんです。トンネルには空気穴か換気孔があるんでしょうね。カーステアズが嗅ぎつけてパティオに入ったんです。あなたはどうやってトンネルのなかへ?」  「反対側からよ。ペロナ中尉が掘った秘密の隠し場所のことを日記で読んだの。それを探していたら――」  「あのペロナは、あなたが知り合いになるには危険すぎる男のようですね。彼の子孫にも充分、注意したほうがいい」  「そういえばあなた、彼に嘘をついたわね」ジャネットが思い出してなじった。  「何のことです?」  「結婚していないじゃない!奥さんも子供三人もいないじゃない!」  ドウンは彼女をまじまじと見た。「どうしてわかりました?」  「あなたの電文に返事が来ていたわ」  「返事?返事ですって?あのクソばかのトゥルーゴールド、軍の無線を通してまともに返事をよこしたのですか?」  「ええ、そうよ」  「何ていってました?」  「ヴァン・オスデルの関係者にパトリシア殺害の件を伝えたら、あなたの探偵局が事件解決を請け負うことになったって」  「わかりました。それにしても、あのトゥルーゴールドは探偵局の局長にあるまじきぼんくらだな。今度会ったら、とっちめてやる」  「そんなこと問題じゃないわ、ミスタ・ドウン。あなたはペロナ大尉の同情をひこうとしたのよ。子供たちがはしかで隔離されているんだといって。それにパトリシア・ヴァン・オスデルのことは何もいわないって約束したじゃない」  「子供たちにはいわないってことです」とドウンは訂正した。「でも、わざと曖昧な言い方をしました。ええ、たしかに、わたしは嘘をついたんですよ」  「まあ、恥ずかしいと思いません?わたしまで巻き添えにして」  「わたしを信じたのがよくなかったんです。ペロナもわたしを信じるべきじゃなかった」  「どうしてよ?」ジャネットは憤慨して尋ねた。  「わたしが探偵だから。そんなことは前にもいいましたね。探偵はできるだけ真実を語るまいとするんです。いつも嘘をつく。そういう商売なんです」  「探偵って、そんな人ばかりじゃないわ!」  ドウンが真剣に答えた。「いいえ。今までいた探偵も、これから生まれる探偵も、みんな嘘つきです。本当ですとも。ペロナもそんなことくらい知っておくべきだった。彼だって、そのほうが都合がいいと思ったら、嘘をつきます。でも、わたしのせいで彼に怒られたりしたのなら、あやまりますよ」  「いったい、何の権利があって…」ジャネットはためらった。「まあ、わたし、何をいっているのかしら!命を救ってくれた人にむかって…ごめんなさい、ミスタ・ドウン!」  ドウンはくすくすと笑った。「忘れてください。いろいろな人にいろいろな理由で怒られますから。いまさら理由が一つ増えようが、減ろうが――」  カーステアズがうなり、ドウンは緊張して振りむいた。「アキ!」と声が叫んだ。  一人の兵士が壁の穴から彼らをのぞいていた。彼は壁をよじ登り、パティオに入ってきた。それに続いて、また一人、また一人と兵士が壁を登ってきた。彼らは散開して不揃いな列をなして近づいてきた。銃剣が光り、茶色い顔にぞっとするような表情が閃いていた。  「どうやらペロナ大尉と腹を割って話すときが来たようだ」とドウンがいった。 第十五章  それは前にドウンが監禁されたのと同じ、小さな、四角い部屋だった。しかし今はペロナ大尉、カヤオ大佐、オルテガ中尉が中央のテーブルのうしろに、いかめしい、もったいぶった顔を並べて坐っていた。兵士がドウンとジャネットを連れてきたとき、誰一人、口をきく者はなかった。カーステアズはドウンとジャネットのあいだにはさまれ、床に坐ると、ちらりと三人の士官を見て、これ見よがしにあくびをした。ペロナ大尉は兵士たちにむかってうなずき、兵士たちは部屋を出てドアを閉めた。  「セニョリータ・マーチン」ペロナ大尉は改まった話し方をした。「あなたがこのような男と出頭してくるとは心外ですな」  「ミスタ・ドウンとカーステアズはお友達ですから!」  「それは献身的であることを示すと同時に、悲しいほどおつむがたりないことを示している。どうか話しかけられるまで黙っているように。ドウン、これは予備軍法会議だ。地震による混乱がなければ、おまえの行動については、もっと早くに協議の場が設けられていたのだが」  「あやまることはないよ」  ペロナ大尉は唇をぎゅっと結んだ。「あやまるつもりなどない。おまえは卑劣な手口でわたしをだまし、おまえが勤める探偵局にパトリシア・ヴァン・オスデル殺しの情報を流した。その結果――おまえの目論見通り――おまえは彼女の死の謎を解くように雇われた。しかしこの事件に謎はないのだ」  「そうかな?」  「そうとも。おまえはこの事件で料金を取ることはできない。わたしが殺人事件を解いてしまった。おまえに手柄を奪わせるつもりはないぞ。われわれは独自の情報源から、パトリシア・ヴァン・オスデルが四日前に、メキシコ・シティの銀行から合衆国の通貨で二万五千ドルを引き出したことをつきとめた。その後、彼女は大きな買い物をしていない。その金は、ホテル・アステカの彼女の所持品のなかから発見されなかったことを考えると、このロス・アルトスに持ってこられたものと推測される」  「財布に入れてね」  「そんなことはどうでもいい。この金が殺人の動機だ。彼女に付き添ってきたグレッグは、彼女が大金を帯びていることを知っていた。彼はそれを盗む機会をねらった。そして地震がまたとない機会を与えてくれたのだ。彼はパトリシア・ヴァン・オスデルと女中のマリアを殴りつけ、金を奪った。しかしマリアはけがをしただけだった。意識を回復したらグレッグが殺人犯だと証言するかもしれない。いや、きっとそうするだろう。彼は口封じのために、昨夜、病院に行き、彼女を殺した。アマンダ・トレーシーに見られたため、彼女も殴り倒した。これも口封じのためだ」  「グレッグは地震のとき腕を折ったんだよ」  「そう。マリアを追いかけている最中にころんだんだ。だから、あのとき、彼女にけがをさせることしかできなかった。猛烈な痛みがあったろうし、早く犯行現場を離れたかったのだ。逮捕はまだだが、もうすぐ捕まえてやる。捕まれば事件は終わりだ。またそれでメキシコ政府と軍隊には何の責任もないことが証明される。パトリシア・ヴァン・オスデルは友達の選択を誤り、こっそり大金を持ち歩いたために、みずから死を招いたといっていい。金のことをわれわれに話していたら、彼女の安全を守るためにいっそうの対策を講じていたのに。何かいうことがあるか?」  「ああ、山ほどあるさ」  「いってみろ」  「いいかね、まず、わたしのことがある。わたしがロス・アルトスに来た理由をあんたは少々誤解していたな。わたしは悪徳政治家に雇われてここに来たのでも、エルドリッジに合衆国に戻るなといいに来たのでもない」  「違うのか?」  「違う。わたしを雇ったのは善政委員会だ。彼を連れ出し、州政を牛耳る悪党どもを追い出すのが目的だ。こいつらは少々腐った連中でな。みんな、やつらが出て行って、二度と帰ってこないことを望んでいる。エルドリッジが知っていることを証言したら、やつらを根絶やしにすることができる。だが、委員会はエルドリッジを送還させることができなかった。彼はあちこちに絶大な影響力を持っているからだ」  「非常に面白い話しだ。本当ならな」  「本当さ。わたしは誹謗、中傷、人格攻撃、事実無根の噂のおかげで、ちょいとばかりあくどい商売をしていると思われている」  「まったくその通りだ」  「そこで善政委員会は、わたしがエルドリッジの悪党仲間に雇われ、ここを出るなと脅しに来たように見せかけることにした。そんなことをされれば、当然彼だっていくらか腹を立てるだろう。そこで彼とわたしは、彼の悪党仲間を裏切る計画を立て、彼に自主的に合衆国へ帰国させるはずだった。帰国したら、委員会が彼をとっつかまえ、牢屋にぶちこみ、しゃべる気になるまで待つという寸法だよ。エルドリッジは、実際、わたしと話をはじめるまで、帰る気はなかった。仲間をびびらせようとしていただけだった」  「そんな話を本気で信じると思っているのかね」ペロナ大尉は丁寧な口調で訊いた。  「もちろん」  ペロナ大尉は彼を見つめた。「一万ドルのわいろのことを話してないぞ」  「ああ。一万ドルのわいろなんてなかったのさ。ただの噂にすぎない」  「シカゴの貸金庫には何が入っている?」  「ようくしゃぶったステーキの骨さ。カーステアズは進歩的なんだ。ほかの犬みたいに骨を埋めたりしない。銀行に預けるんだよ」  「でたらめだ!」ペロナ大尉がどなった。  「本当だよ。委任状にサインするから、メキシコの領事代理に貸金庫を調べさせたらいい」  ペロナ大尉は大きく息を吸いこんだ。「その途方もない話しが、かりに少しでも真実を告げているとすれば、おまえは任務に失敗したということになるな」彼は幾分満足のこもった声でいった。  「とんでもない。エルドリッジは死に際に遺書を口述して残した――署名・捺印して、証人の副署のあるのが三通」  オルテガ中尉がすばやく顔をあげた。「不可能です。あの致命傷で遺書を口述するなんてできません」  「でも、したんだよ」とドウンは譲らなかった。  「遺書を偽造する気だな」ペロナ大尉はにらんだ。  「わたしが?とんでもない。そんなことをしたら、あの悪徳政治家どもがわたしを法廷に召喚して、遺書に書かれた告発が嘘であることを証明しようとするよ」  ペロナ大尉は口を開きかけたが、お手上げだという様子で、話すのをやめた。彼はとうとうこういった。「ドウン。合衆国はわが国の同盟国だ。われわれはしかるべき尊敬の念をもってその国民に接したい。しかしおまえには警告する。メキシコを出て、二度と戻ってくるな」  「待ってくれ。その前に、二つほど、あんたと片づけたい問題がある」  「何だ?」ペロナ大尉は冷たく訊いた。  「わたしの稼ぎをもらいたいのさ。パトリシア・ヴァン・オスデル事件の謎を解いたのはわたしだと公式に認めてほしい」  「どうしてそんなことをしなければならないのだ?」  「そうすればバウティスタ・ボノフィレの居場所を教える」  深い、不吉な沈黙が訪れた。  ペロナ大尉は坐ったまま、かすかに身じろぎした。「さっきの発言は撤回する。おまえはメキシコを出て行くことはできない。二十年ほどこちらに留まることになる」  「お誘いはうれしいが、遠慮しておくよ」  「バウティスタ・ボノフィレは――どこにいる?」  「ヴァン・オスデル事件との取引をのむか?」  「断る!すぐにバウティスタ・ボノフィレの居場所をいわなければ後悔するぞ」  「無茶はいうな。さもないと、わたしは貝のように黙ってしまい、あんたは絶対やつを見つけることができないぜ。強情を張るなよ、ペロナ。取引しようじゃないか。ヴァン・オスデルの件はわたしの手柄とする。バウティスタ・ボノフィレの件はあんたの手柄だ。悪くない話しだろう?」  ペロナ大尉は手で顔をこすり、深いため息を吐いた。「おまえには虫酸が走るよ、ドウン。まったく虫酸が走る。おまえは節操のない、冷血な犯罪者だ。近いうちに、ろくでもない死に方をするだろう――いや、そうなることを心から願うよ」  「それは楽しみだな。しかし、まず、取引だ」  ペロナ大尉はいった。「バウティスタ・ボノフィレはまだつかまっていない。それはわたしにとっても、ナシオ将軍の組織にとっても不名誉なことだ。今晩までには、ブラック・シャドウの峡谷にケーブルが渡されるだろう。するとわたしの失敗はみんなの知るところとなる。おまえの勝ちだ、ドウン。取引するしか選択肢はない。パトリシア・ヴァン・オスデル事件の謎を解いたのはおまえの手柄にしてやる。バウティスタ・ボノフィレはどこだ?」  「カヤオ大佐のパティオの下にあるトンネルのなかだ」  「何だと?」ペロナ大尉は鋭くいった。  ドウンはうなずいた。「本当さ。そこにいるよ」  ペロナ大尉はゆっくりとカヤオ大佐のほうを振りむいた。カヤオ大佐の顔はいつも通り締まりがなく、無表情だった。彼はにやにや笑っていたが、額には汗が光っていた。  「だまされるな。彼は英語がわかる。少なくとも意思の疎通くらいはできる。たいしたポーカーフェイスだが、目の動きは抑えることができない。彼はずっとバウティスタ・ボノフィレと密約して、彼をかくまっていたんだ」  カヤオ大佐はのろのろと立ちあがり、テーブルに寄りかかった。その顔は今や暗い鉛色をしていた。部屋のなかで、彼のほかには話しをしたり、動くものはなかった。ついにカヤオ大佐はテーブルを押すようにしてその場を離れ、ぎこちなく足を動かし、少しふらつきながらドアにむかった。  ペロナ大尉がオルテガ中尉を見やり、うなずいた。「わたしがここの全責任を引き受ける。カヤオ大佐のあとを追い、監禁しろ」  オルテガ中尉は立ちあがって敬礼した。彼はカヤオ大佐のあとから部屋を出た。ドアの閉まる音がずしんと響いた。  ペロナ大尉はドウンを見た。「ますますおまえが嫌いになった。カヤオ大佐は今でこそ飲んだくれのブタだが、昔は非常に勇気あることをしたのだ。わたしは彼を幾分疑っていた。英語がわかるのではないかと思い、わざと英語で侮辱し、しっぽを捕まえようとした。しかし彼のほうが上手だったよ。バウティスタ・ボノフィレの居場所がどうしてわかったのか、教えてくれ」  「わたしは何も知らなかったんだ。わたしが見つけたんじゃない。ジャネットが見つけたのさ」  ペロナ大尉は目をむいて彼女を見た。「あんたか!知っていたのか!知っていながら、わたしがこの犯罪者と不名誉な取引をするのを黙視していたのか!」  「話しかけるまで黙っていろと、いったじゃない」  「なるほどな!あなたに会ってから、唯一、今回だけは、わたしの命令に従うことにしたわけだ!」  「どならないでよ!」  「わたしは好きなときにどなるんだ!」ペロナ大尉は吼えた。「あなたには二歳児ほどの脳みそもない!結婚相手として望ましいかどうか、思案がつくまで牢屋に監禁してやりたいくらいだ!」  「何ですって?」ジャネットは茫然とした。「今、何ていったの?何の思案がつくまでって――」  「かまととぶるのはやめてくれ。女が純情ぶるのは大嫌いだ。あなたが妻として適格かどうか、迷っていたが、こんなまねをするとあっては重大な疑問を抱かざるをえない。しかしわたしは公正な男だ。あなたが名誉ある地位にふさわしい人間であることを証明する最後のチャンスをやろう。どうやってバウティスタ・ボノフィレを見つけた?」  ジャネットは足を踏みならした。「あつかましいわね!わたしがそんなこと、考えるとでも――」  「質問に答えろ!」  「いやよ!」  ドウンがおだやかにいった。「またしてもあの日記さ。あんたの立派なご先祖様はもう一つ、隠し場所を掘ったと書いてあるんだ。ジャネットはそれを探していた。バウティスタ・ボノフィレがとうに見つけていたけどね。いうのを忘れていたが、彼は死んだよ」  「死んだ!」  「ああ。ついでに質問の手間も省いてあげよう。今回も犯人はわたしだ。わたしが撃った」  「そういうことか!その点でも嘘をついていたのだな!もう一丁、銃を所持していたのだな!」  「そんないい方ってないわ!ミスタ・ドウンは命の恩人なのよ。バウティスタはわたしの背中に銃をつきつけていたのよ。そしたらカーステアズが飛びかかって、ミスタ・ドウンが撃ったのよ。当然の報いよ!あなたがそれほど傲慢で、でくの坊でなかったら、こんなことにはならなかったでしょうね!何ヶ月も前にバウティスタをつかまえていたでしょうから!」  「残念ながらその通りだ」ペロナ大尉は沈んだ声でいった。「さあ、これで問題は片づいたな、ドウン。あとはグレッグを捜すだけだ」  「そうそう。やつの居場所も知っているよ」  「何だと?」ペロナ大尉は信じられない様子だった。「やつの…どこにいるんだ?」  「墓のなかさ」  ペロナ大尉はまじまじと彼を見た。「墓のなか――だと?」  「そうだ。あんたたちが捜しても見つからないといったとき、ピンと来たよ。グレッグは生きていれば五分とロス・アルトスに隠れていることはできない。死体なら――埋められた死体なら場所は取らないからね。この辺には新鮮な廃墟がたくさんあるし」  「おまえは頭がおかしいんだ」  「いいや。こう考えてみろよ。パトリシア・ヴァン・オスデルは銀行から大金を引き出し、ほかでもないこの時期に、ここに来ようとやっきになっていた――ホテルが一度取りやめたバス旅行を、袖の下を使って強行させた。なぜだ?彼女は昨日、ここで誰かと会う約束をしていたんだよ。グレッグは彼女が大金を持っていることを知っていたかもしれない。しかし、間違いなくそれを知っていた人間がもう一人いる」  「誰だ?」ペロナ大尉は麻痺したようにいった。  「決まってるじゃないか。彼女がその金を渡そうとしていた人間だよ」  うしろのドアのちょうつがいがかすかにきしみ、苦々しい声が聞こえた。  「小汚ねえ小ネズミめ。小汚ねえ腹黒の悪党め」  「やあ、アマンダ」とドウンがいった。「今、大尉に話そうとしていたんだ。本気でグレッグを捜すつもりなら、あんたの家の下を掘れば、遺体が出てくるかもしれないよってね」  アマンダ・トレーシーは縮れた髪の上にいびつなターバンのような包帯を巻いていた。その下の日焼けした顔はひからびて黄ばんでいた。  「まさか」ジャネットが小さく息を呑んだ。「そんな、まさか」  「そのまさかだよ。アマンダはパトリシアから金をせしめようと取引を持ちかけた。これは思いつきにすぎないが、たぶんプリディリップの絵を見つけたとでもいったのじゃないかな。そう考える理由は、プリディリップがこの町に人が来る最大の理由の一つなのに、パトリシアは彼の名前を慎重に避けていたからだ。パトリシアはお上品ぶっちゃいるが、ちょっとしたペテン師だった。今、恐ろしく高値を呼んでいる未発見の絵が、秘密の取引で手に入るというので、彼女は飛んで来たのだろう。そして取引相手を威圧するために現金を持ってきたのだろう。どうだい、アマンダ?」  「おまえはたいした切れ者だよ」とアマンダ・トレーシーはいった。「おまえが知らないことを教えてやる。あたしは自分のものじゃないものをパトリシア・ヴァン・オスデルから取りはしなかった。彼女のおやじがハエ取り薬のつくり方をどこで手に入れたと思う?あたしの母親からだよ。母親が自分でつくって、農場のまわりで使っていたんだ。ある日、ヴァン・オスデルの野郎があやしげな薬を売りに来て、母親の薬の効き目を知った。やつは母親からつくり方を聞き出し、五ドルとひきかえに権利放棄証書にサインさせたんだ。五ドルだぜ!」  「パトリシアは財産を正当に受け継いだだけだ」とドウンが口をはさんだ。  アマンダ・トレーシーはぎゅっと握ったこぶしを荒々しく振りまわした。「たったの五ドル!ヴァン・オスデルの野郎は何百億も稼いだのによ!そのあと、父親が死んで、あたしたちは農場を失った。あたしは急場をしのぐために、ほんの少しだけ、あたしたちを助けてくれと、やつに頼んだ。母親を田舎の救貧院で死なせたくなかったんだ。ところが、あの野郎、断りやがった。そのとき、いってやったんだよ。寄こそうと寄こすまいと、てめえの汚ねえ金をいただくからなって。たっぷりとよ。あたしは機会が来るのを首を長くして待った。プリディリップそっくりの絵を何枚か描いて、パトリシアがアメリカに戻ったとき、連絡を入れた。プリディリップが住んでいた家の屋根裏から絵を見つけたといったのさ。まことしやかにな。あたしは偽物を売りつけて、みんなにいいふらし、金を取り返そうとする彼女を笑いとばしてやるつもりだった」  「悪くないね」とドウン。「それなのに、なんで殺したんだ?」  「よく訊いてくれたな、チビ。おまえのような連中のせいだよ。だからおまえのようなやつらが大嫌いなんだ。ヴァン・オスデルのおやじを脅したとき、あいつはしばらく私立探偵を雇ってあたしを追いまわさせた。あたしもそのことは知っていたが、まさか写真を撮っていたとは――スナップ写真を撮っていたとは――知らなかった。パトリシアはあたしを見たことがないはずだが、写真は見ていたんだよ。そしてすぐあたしの正体を見破った。彼女はこの取引も詐欺に違いないと悟り、あたしを見て馬鹿笑いしやがった。もっともその笑いも長くは続かなかったがな」  「ディオス ミオ」とペロナ大尉は小さくいった。  アマンダ・トレーシーは彼を見て笑った。「地震はまさに願ってもなかったぜ。地震が起きたとき、パトリシアはあたしに背を向けて帰るところだった。あたしは石を拾い、彼女をぶん殴り、財布をひっつかんだ。マリアは叫びながら走り出したけど、そのときは誰も彼もがそうしていた。あたしはあとを追いかけて石で彼女をぶった。息の根を止めたと思ったのに。その前後は誰もあたしのことなんか注意して見てなかった。この町の人はあたしを見慣れているからな」  「グレッグはどうした?」  「あいつは昨日の晩、ホテルからあたしをつけてきた。パトリシアがここに来た理由を知っていて、何が起きたのか、あたりをつけたんだろう。あいつは二万五千ドルを寄こせといった。全部だぜ。あきれた神経だよ。あいつは陰険な野郎だ。でも、あいつがナイフを持っていないことは知っていた。あたしは自分のを持っていた。岩で一発殴られたが、あいつにはそれ以上、何もする時間がなかった」  ジャネットは小さくごくんと喉を鳴らした。  「気をしっかり持ちな、お嬢ちゃん」とアマンダ・トレーシーはいった。「おまえたち三人をびっくりさせるものがあるんだ」彼女は右手を突き出した。「きれいだと思わないか?」  「たいへんだ――手榴弾だ!」ペロナ大尉が叫んだ。  「おまえんとこのものだぜ。こういうものはちゃんと管理しておけよ」彼女は左手を伸ばしてうしろを探った。「この小さい鉄の卵はここに置いていってやる。爆発したら大騒ぎになるだろうな。何もかもけりがついたころ、あたしは病院の小さなベッドで、何も知らずにびっくりって顔をしているだろうぜ。あたしが今した話しは、おまえたちの誰にもしゃべらせない」  「待て!」ペロナ大尉が叫んだ。「そんなことは――」  「じゃ、あばよ」とアマンダ・トレーシーはいった。彼女の左手は掛け金を見つけ、後ろ手でドアを開けた。  レピシックが品良く、興味深そうにながめながら入り口に立っていた。彼は何気なくドウンにうなずきかけ、アマンダ・トレーシーの首に空手チョップを食らわせた。彼女の頭ががくんと前に落ちた。ドウンは彼女にむかって突進した。両手で彼女の右手をつかみ、そのがっしりした身体がくるっと回って床にくずおれるあいだ、しっかりとにぎりしめていた。  「押さえたぞ!」ドウンがあえぐようにいった。「手榴弾を押さえた!気をつけろ!指がピンにかかっている!」  ペロナ大尉が荒々しく息をしながら横にひざまずいた。限りなく慎重な手つきで、彼は太い指をはがしていった。手榴弾を取り出すと、不安そうに反対の手に持ちかえ、机の上に置いた。  ドウンはアマンダ・トレーシーを放して立ちあがり、緊張した面持ちで額の汗を拭った。  「ミスタ・ドウン」とレピシックはいった。「ちょっとよろしいですか。軍の無線を通じて電文が届いたんですよ。それが何だか訳のわからない内容なので教えてくれませんか。カーペンハイヤーという男から来たんです。カリフォルニアのハリウッドの映画会社のエージェントだというのですが、聞いたことがありますか?」  「ああ、最高のエージェントの一人だよ。あんたは本当に映画監督なのか?」  「もちろんですよ。たくさん映画を撮りました――ロンドン、ローマ、ストックホルム、ベルリン、パリ、ベニス、モスクワ。もちろん戦前ですけど。ですが、このカーペンハイヤーはわたしに仕事があるっていうんです。それも――」レピシックは数字を確認した。「一週間に千七百五十ドルもらえるそうです。これは正しいんでしょうか?」  ドウンは顔をたじろぎながらもうなずいた。「カーペンハイヤーがそういうなら、そうなんだろう。承諾しろよ。急いで」  「貴様!」ペロナ大尉が急に気がついていった。「わたしの部屋からどうやって出て来た?見張りの兵士はどこにいる?」  「頭痛がするというのでアヘンをさしあげました」  「アヘンだと!」ペロナ大尉は取り乱した。  レピシックは驚いたようだった。「ほんの少量ですよ。頭痛によくきくのです。ただし、お休みになってしまいましたけど」  オブリアン軍曹が前のドアをぶち破るように飛びこんできた。「たいへんです!あの画家のあまっこ、病院を抜け出して行方が――」彼はぽかんと口を開けた。  ペロナ大尉が険悪な顔つきでいった。「いつもながらいいタイミングであらわれるな。そこに画家のあまっこがいる。われわれ全員を殺そうとして失敗したところだ。牢屋に入れておけ。その前に手榴弾とか、そのほか、物騒な武器を持っていないか調べろ」  アマンダ・トレーシーがぴくりと動いてうめき声を出した。  「まあ、わたし、見ていられない…外に行く!」  彼女はすばしこくオブリアン軍曹をすりぬけて、まっしぐらにドアから出ると、こぎれいな砂利敷きの観兵式場を広場にむかって突き進んだ。うしろからドウンとペロナ大尉が心配そうに呼びかけるのが聞こえたが、足を止めなかった。ところがそのとき、彼女はふと足を止めてしまうようなものを見たのである。  「いかがですか!」とバルトロメは誇らしげにいった。「まさに想像を絶する奇跡中の奇跡!」  それはバスだった。フットボールほどもある大きなへこみがいくつもできていた。車体はかしぎ、背中はくぼみ、後輪のタイヤはどちらもパンクしていた。しかし瓦礫の下から救出されたバスは、今や、その四つの車輪で立ちあがったのである。  カーステアズとドウンとペロナ大尉はジャネットの横に来て、やはり目を見張った。  「エンジンが脱落して、はなはだしく損傷しておりますが、そんなことは些細な問題でしかありません」  ヘンショーが憂鬱そうな顔で彼らのほうに歩いてきた。頭を垂れ、両手を背中で組んでいる。  「ご覧ください」とバルトロメが彼にむかっていった。「名所めぐりの観光バスが見事に蘇りました」  「蘇ったって、おれにはいいことはないよ」とヘンショーはいった。  「どうした?」ドウンが訊いた。「ティンプキンスにバスルームを売ったんじゃないのか?」  「いいや」とヘンショー。「バスルームは売れなかった」彼は泣きそうな声になった。「ティンプキンスにあのいまいましいおんぼろホテルを売りつけられたんだ!」 翻訳底本: http://manybooks.net/audiobooks/fiction/the-mouse-in-the-mountain-chapter-1/から http://manybooks.net/audiobooks/fiction/the-mouse-in-the-mountain-chapter-15/まで。 この作品は、原作初出の1943年から10年以内に、日本国内で翻訳物が発行されていません。旧著作権法第七条の、いわゆる「翻訳権十年」規定の対象となるもので、翻訳権は消滅しています。 原作初出:1943年 入力・翻訳者:林清俊 2008年5月22日作成 ※翻訳者のホームページは、http://ebookdiary.hp.infoseek.co.jp/ にあります。作品・翻訳に関するお問い合わせは、ホームページのBBSを通じてお願いします。